青年の頃の、それもおそらくは、青年ゆえの錯誤なのだろうが、それでも錯誤としての光が明滅していた時期を、破廉恥を承知で青春と称することにする。なぜ敢えてこんなことを書くかと言えば、それなりの訳がある。55歳にもなれば、かつて友人と称して憚らなかった人々とも疎遠になってしまう。好むと好まざるに関わらず、人生の終焉にふさわしく孤独を実生活の中で味わうことになる。まあ、これが死への心身の備えでもあるのか、と諒解すれば孤独もなにほどか意味を持ち得るものだ。そんな気持ちで毎日を過ごしている。
京都の、二流なのか三流なのかは知らないが、ともあれ誰の金銭的援助も受けられないことを承知で、何十年も前に私学に籍を置いた。授業料を支払うためにバイトをし、バイトをすれば大学に行けないという矛盾の中で、それでも何とか卒業に漕ぎつけるまでには、何人かの気のおけない仲間が出来てしまうものだ。彼らは総じて僕ほどには金銭的に困窮してはいず、たまに一緒に酒でも飲む機会があっても、いつもなにほどか、精神的な距離感を感じていたものである。卑近な言葉で表現すれば、僕はその頃、確かに寂しかった、と思う。自分には彼らのように楽観的に未来を語ることなど出来はしなかった。ともかく、僕は寂しく、そして追い詰められていた。それでも大学時代の友人をかかげよ、と言われれば、違和感を抱きつつ付き合っていた5~6人のむさくるしい男友達の顔が思い浮かぶ。歳をとるとともに、5~6人が2~3人に減り、気がついたらまわりには誰もいなくなっていた。 何年も音沙汰のなかったかつての友人から今夜電話があった。声色は彼が若かった頃とまるで変わってはいなかった。僕は何となくはしゃいで、おお、元気にやってるかい?という素朴な感嘆の声を投げかけた。電話の向こうの声色は、話すほどに事務的になってきて、その内実は、数少ない大昔の友人の訃報を伝えてくれたものであった。ガンであったらしい。亡くなった、かねての友人の死を悼む気分は深いが、それほど遠くないうちにオレも行くよ、という感慨の方が支配的だったので、死を悼むというよりは、彼の死に共鳴する感覚の方が遥かに勝っていた。しかし、そういう気持ちとは裏腹に、電話に向かっては、大仰にかの友人の死を受け入れられない、という声色になる自分がいた。同時に、ああ、友人と言っても、今後も誰それの訃報くらいは知らせてくれるのが、鈍磨した友情の化石化した姿なのだろう、とも潔く胸に落とした。最も親しかった友人には、その知らせを伝える役割を僕がつかさどった。しかし、東京に在住している彼は、このところ何度か電話をするがいつも留守電で繋がらない。悪い想像を巡らせると、編集の仕事を独立起業していた彼が、昨今の不況で、逃げているのかも知れないとも思う。そういう想像がまんざら絵空事ではないようにも思ってしまうこの頃なのである。案の定、今夜も電話は留守電のままで繋がることはなかった。いま、人生の酷薄さを感じずにはいられないままにパソコンのキーを叩いている。まあ、これが人生か、と嘆息するしかないのだろう。
日曜日の夕暮れ時に、通夜だと言う。葬式などという、様式化された死の隠蔽のための儀式などには出たくもないが、死した彼の結婚式の後の披露宴に出席するために、梅田のあるレストランへ出向いたことのケジメだと思うことにする。どうしたわけか、何十年も前の、あの二階のレストランの中の光景、食した料理の味、彼の嬉しそうな顔、美人の奥さんの手を帰り際に握ったときの感触が、いま生々しく蘇ってくるのはどうしたことか。おい、君は早くにガンという厄介な病気でこの世を去ったが、美人の奥さんと暮らし、仕事にも恵まれ、こうして君のことを昨日のごとくに思い出している人間がいるのである。死はそれほど悪いものではないよ。たぶん、通夜の夜に、君の死に顔に向かって、僕は密やかに呟いていることだろう。安らかに眠れ、君よ。
○今日は勝手気儘な私ごとです。推薦図書はありません。読み流してくだされば幸いです。
京都カウンセリングルーム(http://www.medianetjapan.com/2/17/lifestyle/counselor/)
Tel/Fax 075-253-3848 E-mail yas-nagano713@nifty.com
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http://merumaga.yahoo.co.jp/Detail/15970/p/1/
京都の、二流なのか三流なのかは知らないが、ともあれ誰の金銭的援助も受けられないことを承知で、何十年も前に私学に籍を置いた。授業料を支払うためにバイトをし、バイトをすれば大学に行けないという矛盾の中で、それでも何とか卒業に漕ぎつけるまでには、何人かの気のおけない仲間が出来てしまうものだ。彼らは総じて僕ほどには金銭的に困窮してはいず、たまに一緒に酒でも飲む機会があっても、いつもなにほどか、精神的な距離感を感じていたものである。卑近な言葉で表現すれば、僕はその頃、確かに寂しかった、と思う。自分には彼らのように楽観的に未来を語ることなど出来はしなかった。ともかく、僕は寂しく、そして追い詰められていた。それでも大学時代の友人をかかげよ、と言われれば、違和感を抱きつつ付き合っていた5~6人のむさくるしい男友達の顔が思い浮かぶ。歳をとるとともに、5~6人が2~3人に減り、気がついたらまわりには誰もいなくなっていた。 何年も音沙汰のなかったかつての友人から今夜電話があった。声色は彼が若かった頃とまるで変わってはいなかった。僕は何となくはしゃいで、おお、元気にやってるかい?という素朴な感嘆の声を投げかけた。電話の向こうの声色は、話すほどに事務的になってきて、その内実は、数少ない大昔の友人の訃報を伝えてくれたものであった。ガンであったらしい。亡くなった、かねての友人の死を悼む気分は深いが、それほど遠くないうちにオレも行くよ、という感慨の方が支配的だったので、死を悼むというよりは、彼の死に共鳴する感覚の方が遥かに勝っていた。しかし、そういう気持ちとは裏腹に、電話に向かっては、大仰にかの友人の死を受け入れられない、という声色になる自分がいた。同時に、ああ、友人と言っても、今後も誰それの訃報くらいは知らせてくれるのが、鈍磨した友情の化石化した姿なのだろう、とも潔く胸に落とした。最も親しかった友人には、その知らせを伝える役割を僕がつかさどった。しかし、東京に在住している彼は、このところ何度か電話をするがいつも留守電で繋がらない。悪い想像を巡らせると、編集の仕事を独立起業していた彼が、昨今の不況で、逃げているのかも知れないとも思う。そういう想像がまんざら絵空事ではないようにも思ってしまうこの頃なのである。案の定、今夜も電話は留守電のままで繋がることはなかった。いま、人生の酷薄さを感じずにはいられないままにパソコンのキーを叩いている。まあ、これが人生か、と嘆息するしかないのだろう。
日曜日の夕暮れ時に、通夜だと言う。葬式などという、様式化された死の隠蔽のための儀式などには出たくもないが、死した彼の結婚式の後の披露宴に出席するために、梅田のあるレストランへ出向いたことのケジメだと思うことにする。どうしたわけか、何十年も前の、あの二階のレストランの中の光景、食した料理の味、彼の嬉しそうな顔、美人の奥さんの手を帰り際に握ったときの感触が、いま生々しく蘇ってくるのはどうしたことか。おい、君は早くにガンという厄介な病気でこの世を去ったが、美人の奥さんと暮らし、仕事にも恵まれ、こうして君のことを昨日のごとくに思い出している人間がいるのである。死はそれほど悪いものではないよ。たぶん、通夜の夜に、君の死に顔に向かって、僕は密やかに呟いていることだろう。安らかに眠れ、君よ。
○今日は勝手気儘な私ごとです。推薦図書はありません。読み流してくだされば幸いです。
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