ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

多様化する社会における言語表現について

2008-12-21 00:35:45 | 社会・社会通念
○多様化する社会における言語表現について

まず、「多様化する社会」という表現の、<多様化>とはどのように定義すればよいのか、という問題に言及しておかねばならないだろう。現代社会における多様化とは、価値観の多様化というよりも、物事の価値観の希薄さと分散化であると位置付ける方が説得力があるように思われる。20世紀における日本の歴史上の事柄についてのいちいちの評価はさておくとして、それを一言で表現するならば、悲喜こもごものドタバタ劇の連続体として認識することが出来る。それにしても、軍国主義における価値の一極集中化、他国の圧力がもたらした唐突な既成価値からの解放感とともに訪れた、平和主義という新たな価値の一極化、そしてその後の経済復興を底支えしてきた「経済の論理」という、これまた別の価値への一極化という変遷の過程で、おそらくかつては人間相互間における言語は、その時々の共通したファクターが媒介となり、それらが共通言語の土台ともなり得たのではなかろうか。これが昭和を生き抜いてきた一人の人間としてのささやかなつぶやきである。事の是非についての確証は残念ながら明瞭ではない。が、それなりの人生体験の堆積と、自分なりの直感力と、少しばかりの洞察力によって、なにほどか、時代の空気を感得する自信は消し難くある。まとめて言えば、かつては、なんとか己の真意を尽くせば、他者との間にふつつかなりとも共通感覚という精神の交通路が生起する可能性があった時代性、と定義づけられるのではないかと思われる。

さて、現代における<多様化>の意味は前記したとおりだが、多様化が価値の希薄さと分散化と同義語であると認識するならば、そのような社会的土壌の上に立った言語表現とはいかなる形として存立し得るものなのだろうか?少なくともかつてのような哲学的・文学的論理それ自体では、特に現代の若者たちの価値意識の中に入り込むことなど到底出来はしないであろう。このような状況下において、表現者としての立場からの要求の強度をさらに上げるとするならば、若者たちの価値意識の変容にまで立ち至る可能性を創造することにしか、現代に通用する言語表現の可能性は残されていないのも同然なのである。この、分散化され、存在そのものが希薄になった価値意識が支配的な現代においては、直截的な論理的思考回路は言語交通の手段としてはあまり役立たない。無論、どのような時代背景に覆われようとも、論理の力は言葉の構築力によってなされる、人間の最高級の叡知であることに変わりはないだろう。したがって問題となるべきは、人間の叡知としての論理力、そしてその土台となるべき言葉の力が、如何に現代という時代性の中に溶け込めるかどうかにかかっているということである。だからこそ、そのための方法論が論じられなくてはならないのだろう。

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 言葉の構築力が論理を創る。換言すれば、創造力とコンストラクション、あるいは時として、創り上げられた論理のデ・コンストラクションが直截的な方法論でなく、現代ふうにデフォルメされた論理の構築を考えなくてはならない。極度に凝縮された言葉の使い方、過剰な表現を如何にして剥ぎ取り、剥ぎ取った結果としての表現が、言葉の威力をさらに増しているか否かという観点を、常に表現者が意識することこそが不可欠なのである。これは言語表現を単に簡便化するという意味ではない。現代が、多様化する社会と位置づけるられるとしても、過剰な言葉を剥ぎ取るという意味は、かつての絶対的な価値意識に関わる表現を、可能な限り相対化する知的作業のプロセスの中から創り出されるはずである。ある思想を表現するための、かつての言語表現の中に散見出来る既成の言葉を、常に新たな言葉として創り変えていく努力を惜しまないこと。言葉の力とはあくまでその時代性に受容され得る表現形式と表現方法によって、旧価値の中から再発見出来る思想のあり方を、価値の希薄さと分散化された現代という多様性の中に、デ・コンストラクションすることの出来る表現能力を若者たちに伝播させていくことなのである。その方法論は決して、価値の希薄さや分散化におもねることではない。それどころか、現代の多様性を表現者の側が、己の表現方法としての言葉を、価値の希薄さと分散化そのものをデ・コンストラクションする営為のプロセスにおいて、多様化する現代社会の価値意識の意味を言葉の力によって表現する可能性が残されているもの、と確信する。現代社会の多様化に単に追従するだけではなく、新たな創造的な価値意識を言語化し得る言語表現の可能性とは、かくのごときプロセスの中にこそ存立し得るものである。また、このような表現の方法論は、母語である日本語あるいは、あらゆる外国語表現においても当てはまる思想性を含んでいると確信する。

○上記の内容は、ある大学の教員募集の課題レポートです。魔がさしたというか、学問への多少の傾注が、自分の歳も考えずに応募してしまい、予想どおりに不採用になった提出文書の一つです。この大学のHPから履歴書や、経歴書などをダウンロードし、そこに必要事項を書き込むようになっているのですが、その履歴書たるや、どこかの大学のオーバードクターを捜していることが見え見えの、大学院という学歴が不可避な代物でしたが、なんだかそれを眺めているうちにかえって心が偏狭になりまして、応募に至ったというわけです。実損はまるでありませんが、自分の年齢と学歴のなさと、何よりも、才能のなさを自覚せしめてくれる良き素材ではありました。お暇があればどうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃