「龍馬伝」はかなりな人気番組になりつつあるようで、龍馬役の福山雅治も清々しい青年像をよく演じていて、坂本龍馬というか、福山雅治のイメージの創りだす純朴さと情熱で、しばしば単純な僕などは泣かされる始末なのである。このドラマは楽しめばよいと思っているが、それにしても、僕自身の、この時代に関する評価と知識があまりにも狭隘であり、西欧列国から開国を迫られ、不平等条約に甘んじながらも、日本の旧藩主・藩士たちが、複雑で、かつ重層的な明治革命を遂行したことの学習を、ずっとやっていたら、これまで勤皇(尊王)派と佐幕派という単純な二層構造としてしか龍馬が駆け抜けた時代を捉えていなかった自分の浅はかさに、呆れるばかりだったのである。呆れることのついでに、恥を忍んで書き置くと、近江屋で暗殺されたのが、海援隊の隊長であった坂本龍馬であることは知ってはいたが、陸援隊の隊長の中岡慎太郎まで暗殺されたことは今回の学習で初めて知った。アホか、と思う。大政奉還の立役者としての、後藤象二郎の存在さえ、僕の記憶の中では希薄になっていたほどなのである。ひと言で明治革命といっても、各藩の中でも、藩主と藩士の対立があり、またその中でも、思想の違いがあり、大きな観点で、明治革命を、勤皇(尊王)派と佐幕派との二大勢力の闘争などとは到底纏め切れない、重層的な旧勢力の破壊と新勢力の構築を、自分なりにどのように整理したものか、悩みつつも、ずいぶんと深い学習を強いられた。
明治革命を遂行した若き天才たちの運動論はダイナミズムに満ち溢れたものである。彼ら天才たちは、勤皇(尊王)派にも佐幕派にも勿論いたわけで、日本が、当時の他のアジア諸国が西欧列国の植民地になっていくのに、自立を守り抜けたのは、彼ら、若き天才たちが命を張って、融合と離反を繰り返しながらも、明治維新をダイナミックな革命によって、日本の再構築に成功したからであって、これは他国の大きな革命運動と比較しても決して見劣りのするものではない。
前置きが長くなった。さて唐突かも知れないが、今日は三島由紀夫という男がサムライを演じようとして、サムライになり得なかった理由を書きたいのである。三島の作品世界といい、真似ごととしての、政治組織、「楯の会」といい、自己のボディビルと剣道による体の鍛錬といい、自衛隊に楯の会を参加させたことといい、最期は楯の会の数人と当時の市ヶ谷駐屯所に乗り込み、自衛隊員に対して、天皇に主権を奪取させるための蜂起を促すという、時代錯誤の行動の果ての、計算づくの切腹劇は、あまりにも稚拙な自己陶酔とナルシシズムが見え透いていて、以前にもまして、僕は、三島が嫌いになった。三島の作品世界に、日本的な美の世界を重ねる人もいるのだろうが、所詮三島の美意識とは、明治革命に巻き起こった政治的ダイナミズムや、思想の重層性のカケラもない、あくまで、静的な美意識という代物である。静的美意識の根底をなす思想とは、三島由紀夫という、頭デッカチの、手前勝手な過去への、サムライ社会への疑似的回帰に過ぎない。それを支えているのは、三島の作品世界における美文ということを認めてもよいが、その美文の中に動的なダイナミズムなど、目を皿のようにして探しても見当たらない。当然だろう。何故なら、三島という男は、もともと閉塞した世界の中で、静的な美文を紡ぎ出すことによってしか、自己実現が出来なかったのであるからだ。三島の狭隘な自己実現の完成は、疑似的な革命への放棄という無様な行為の果ての、無価値な腹切りだった。日本的な幽玄な美を求めてやまなかった三島の自宅が、白亜の西欧風の安づくりのロココ風宮殿を真似てつくったのは、ある意味、三島の思想がよく現れている。三島の自宅が西欧風なのは、明治政府が卑屈に鹿鳴館時代を送ったのと同じ種の、昭和という時代への卑屈さの表現ではなかろうか。果たして三島自身がそのことを自覚していたかどうかは疑わしいが。まあ、いまは、三島由紀夫を論じるよりも、江戸から明治への移行時期に、命がけで新たな未来を構築しようとした英雄といおうか、傑出した天才たちといおうか、彼らの営為に敬服することの方が意味があると僕は思うのである。今日の観想とする。
明治革命を遂行した若き天才たちの運動論はダイナミズムに満ち溢れたものである。彼ら天才たちは、勤皇(尊王)派にも佐幕派にも勿論いたわけで、日本が、当時の他のアジア諸国が西欧列国の植民地になっていくのに、自立を守り抜けたのは、彼ら、若き天才たちが命を張って、融合と離反を繰り返しながらも、明治維新をダイナミックな革命によって、日本の再構築に成功したからであって、これは他国の大きな革命運動と比較しても決して見劣りのするものではない。
前置きが長くなった。さて唐突かも知れないが、今日は三島由紀夫という男がサムライを演じようとして、サムライになり得なかった理由を書きたいのである。三島の作品世界といい、真似ごととしての、政治組織、「楯の会」といい、自己のボディビルと剣道による体の鍛錬といい、自衛隊に楯の会を参加させたことといい、最期は楯の会の数人と当時の市ヶ谷駐屯所に乗り込み、自衛隊員に対して、天皇に主権を奪取させるための蜂起を促すという、時代錯誤の行動の果ての、計算づくの切腹劇は、あまりにも稚拙な自己陶酔とナルシシズムが見え透いていて、以前にもまして、僕は、三島が嫌いになった。三島の作品世界に、日本的な美の世界を重ねる人もいるのだろうが、所詮三島の美意識とは、明治革命に巻き起こった政治的ダイナミズムや、思想の重層性のカケラもない、あくまで、静的な美意識という代物である。静的美意識の根底をなす思想とは、三島由紀夫という、頭デッカチの、手前勝手な過去への、サムライ社会への疑似的回帰に過ぎない。それを支えているのは、三島の作品世界における美文ということを認めてもよいが、その美文の中に動的なダイナミズムなど、目を皿のようにして探しても見当たらない。当然だろう。何故なら、三島という男は、もともと閉塞した世界の中で、静的な美文を紡ぎ出すことによってしか、自己実現が出来なかったのであるからだ。三島の狭隘な自己実現の完成は、疑似的な革命への放棄という無様な行為の果ての、無価値な腹切りだった。日本的な幽玄な美を求めてやまなかった三島の自宅が、白亜の西欧風の安づくりのロココ風宮殿を真似てつくったのは、ある意味、三島の思想がよく現れている。三島の自宅が西欧風なのは、明治政府が卑屈に鹿鳴館時代を送ったのと同じ種の、昭和という時代への卑屈さの表現ではなかろうか。果たして三島自身がそのことを自覚していたかどうかは疑わしいが。まあ、いまは、三島由紀夫を論じるよりも、江戸から明治への移行時期に、命がけで新たな未来を構築しようとした英雄といおうか、傑出した天才たちといおうか、彼らの営為に敬服することの方が意味があると僕は思うのである。今日の観想とする。