ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

生きる幸せ

2010-02-12 05:42:19 | 観想
○生きる幸せ

これまで僕が書き綴ってきた内実からすると、「生きる幸せ」というテーマはいかにも似つかわしくないように聞こえるに違いない。ある意味において、そういう捉え方は正しい。僕が語ろうとする「生きる幸せ」とはあくまで現実の自己の生のありようを手放しで肯定するということでは勿論ないからである。敢えていうなら、生きるための幸福論というように捉えていただければ幸いである。

生きる幸せを語るまえに、多くの人々は、生きる不幸を考えがちなのではないか、ということから書き始めなければならないであろう。もし、そのような観点が支配的であるなら、確かにこの世界を生き抜くには、かなりの覚悟か、あるいは、かなりの能天気さが必要であろう。僕の感性からいえば、能天気に生きる人は、どうぞ勝手に生きてください、というしかないので、ここに書き記すことには、そういう人々のことは視野に入っていない。逆に、生きるのにアップアップの状態で何とか暮らしを立てているような人の不幸の定義をまず一度砕いてみたいと思うのである。おおむね、生きることに対してぎりぎりの境界線で自分を納得させて生きているような人は、すべてが経済的に困窮している人々とは限らない。客観的に見れば、結構な収入があり、生活レベルも上位に属する人々の中にも、生きることを十分に楽しんでいるとは言い難い現実感覚を抱いている人がいるのが実情ではないか、と思う。何故なら、彼らの価値観の中核を占めるのは、どのように差っ引いても、経済的な物差しだからである。金のあるなしという尺度で云えば、金がなければ、当然自分の欲望が叶えられないわけで、自分を不幸の権化のごとくに考えるだろう。金があったらあったで、いまの生活レベルがいったいいつまで続くのか、というような差し迫った危惧ではないにせよ、時折フカフカのベッドの上で、自分が極貧の生活に陥って喘いでいるイメージを思い浮かべては、その悪夢にうなされている可能性すらあるのではなかろうか。

日本の景気に陰りが差し始めた頃、清貧の思想を流布する作家がいたと記憶する。無論作家の名前は覚えてはいるが、それがまやかしであったがゆえに、敢えてここには書いてやらないだけである。確かに、生を不幸という物差しでしか考えられない大きな要因とは、経済の論理である。金があれば、それを失うことを怖れ、金がなければ、貧乏であることで自己卑下し、そこに人間としての精神性が欠落しているのは明らかな事実ではあるだろう。しかし、清貧の思想の中に込められた論理は、なんら新たな視点を読者に与えてくれるものではなく、むしろその内実は、古めかしい儒教精神フンプンたる様相を呈していて、このような精神性からは、人間の底地力―生きるエネルギーと言い換えてもよいが、そのような要素が掻き消されるだけであって、いま、ここの、経済的階層の固定化の思想を深める役割を担っているとしか僕には読めなかったのである。経済界の御用学者よりも、庶民派に見える分、タチが悪いと感じたわけである。要するに清貧の思想なるものも、精神主義という意匠を装いながら、その実、経済の論理を裏付ける、人間を現状という環境の中に封じ込める無抵抗な精神の底へと人々を圧し込めるものに過ぎないのである。

人間の幸せとは、私に言わせれば、他者を信じる力である。無論、信じるに値する他者を見抜けるかどうかは、その人なりの思想性の深さ如何にかかっていると言っても過言ではない。自分のことも含めて云わざるを得ないが、バカな人間を信用して騙されることほど、自己の幸せから遠ざかることはない。他者を信じるには、まずは己れの思想の次元を高める必要があるし、もしも、それを怠れば、惨めな未来が待ち受けているだけのことである。だからこそ、人間が生きている限り、人は、生の暗黒の面ばかりを見て、絶望の淵に立って慨嘆するような愚行を犯すべきではない。信じるに値する他者を信じてこそ、己れの未来も開けてくるというものである。その意味で、人は生ある限り、幸せを求めて、あくまで貪欲であってしかるべきである。幸せを希求出来ない人生など、生きていく価値はないのではあるまいか。今日の観想とする。

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長野安晃