ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

朝青龍の引退についての雑感を少しー石原慎太郎との関連で

2010-02-06 03:24:00 | Weblog
 朝青龍という横綱はおもしろい人で、たぶんマスコミ報道されていないところにおいても、小うるさい人々にとっては、顔をしかめるようなことがたくさん起こっていたのではないかと思う。小うるさいという人のイメージは、朝青龍自身が自分の天敵と称している、横綱審議委員会の、あのおばちゃんをイメージするとよいのかも知れない。彼女に言わせると、朝青龍などは、横綱の品格が著しく欠如した、神聖?な国技を支える資格のない、単なる暴れん坊に過ぎないとでも思っているのだろう。しかし、大相撲の品格って何だ?番付のほぼ半数が海外からの出稼ぎ力士ではないか。彼らをかたちだけで、無理矢理日本式の伝統?とやらの中に押し込めようとすること自体がすでに不可能な時代を迎えているのではないか?

 東京都知事の石原慎太郎は、朝青龍の引退について、文化の様式を壊すような人間は、さっさと去るのが当然だ、などと記者会見で述べている。どこまでいっても、石原という人間はアホか、自分本意か、いや、何よりも、たぶん自分のことがまるで分かっていない人物なのだろう。そもそも石原慎太郎が「太陽の季節」で芥川賞をとったのは、当時の文化を根底から覆すだけのエネルギーを放出する、太陽族と称する若者たちの新しい価値観を主題にした小説だったではないか。僕は石原慎太郎など大嫌いだが、彼のすでに絶版になっている小説も含めて、たぶんすべての作品を読んでいるのは、石原の描く主人公たちはすべからく既成の価値意識を根底から覆す可能性を秘めた人物たちばかりだったからである。その意味において、石原の描く小説空間で繰り広げられる物語のテーマこそが、既成の文化的様式をことごとく破壊するエネルギーそのものだったではないか。既成の文化的様式を破壊し、破壊の中から新たなものを構築し、さらに再構築させるというポスト・モダン的な世界観を、石原はポスト・モダンというフランス哲学用語が生まれるずっと前に、自己の作品の中で描いてみせたのではなかったのか。

 石原慎太郎が、政治家に転身したのは理解できる。しかし、なぜ彼が保守政党の自民党議員として政治に参画したのかが、まるで理解できない。彼の描いた作品世界との解離感が大き過ぎる。石原が詐欺師でなければ、そもそも出来合いの、権力を手中にした古めかしい政治家たちの仲間入りをするはずがない。権力という魔物の虜になり果てたのか、あるいは、旧価値、すなわち古き様式を壊すなどということは、石原の思想でも何でもなく、単なる似非ら事に過ぎなかったのか。おそらくは両者ともに石原の本質なのではないか、といまにして思う。

 横綱審議委員会といい、日本相撲協会といい、石原といい、自分は安全なところにいながら、エラそうなことばかりを鬼の首でもとったかのようにのたまわる。見苦しく、また聞き苦しい限りである。彼らこそ、チェ・ゲバラに学べ!キューバ革命を成功に導き、建設相にまでになった地位を捨てて、チェ・ゲバラは一革命家として、ボリビアの密林の中に入り、そこで果てた。石原慎太郎の「強気」は、強気を装った、既成権力の上に胡坐をかいた、怠慢なエセ保守主義者に過ぎない。真正の保守主義者なら、もっとそれなりの品格があるだろう。

 朝青龍は引退などするべきではなかったと心底思う。日本の硬直化した伝統?にヒビ割れを起こし、新たな伝統のあり方を創設するためにも、彼は必要な人物だった。政治家たちが、分かったように、グローバライゼーションなどと言うなら、朝青龍ならば、将来のモンゴル大統領も射程に入っている人物であり、近い未来の日本にとって必要な存在だとは認識しなかったのか。なぜ力もなく、展望も持てない人間たちが寄り集まって、朝青龍を追放せねばならなかったのか。少なくとも石原慎太郎のごとき小者に、朝青龍を汚らしい言葉で批判する資格はない。少しは内実のない毒舌を控えたらどうか。聞き苦しいのである。