ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

何度目かの「組織と人間」考―組織の指導者が認識しておかねばならないこと。実践しておかねばならないこと

2010-02-20 04:55:18 | 政治経済・社会
○何度目かの「組織と人間」考―組織の指導者が認識しておかねばならないこと。実践しておかねばならないこと

人間が集い、その中で某かの活動をなし得る場を組織と呼ぶならば、その組織の中には必ず指導者がいなければ、その集団は単なる烏合の衆となり果て、組織が発展することなく、必ず自然消滅することになる。組織が、その名の働きを成し遂げられるのは、組織集団の指導理念を、明らかにする必要がある。組織の目的に従った実践化の出来、不出来は、当然そのあとの問題となる。会社組織は、分かりやすい例だから、これを素材として語ることにする。

会社組織である限りにおいて、その目的は利潤追求である。しかし、利潤追求という問題を金儲けというような、狭い定義をすると当該会社は目先の利益にしか関心が持てず、そうであれば、会社とは、現代においては、日本経済全体の動きの中で、あるいは、もっと視野を広げれば世界経済の動向によって、利益追求の方法論は、常に流動的にならざるを得ない。だからこそ、経済のあり方が流動的であれば、会社存続における利潤追求には、なおさらなんのための会社存続を目指すのかという理念が根底に据わっていないと、景気の流動化の中で、理念のない会社などは自然淘汰されて当然なのである。つまりは、会社と云えども組織である限り、組織を構築している屋台骨としての思想がなければ、生き残れる組織たり得ないのである。

会社組織の理念は、指導者が会社の構成員たる社員に対して、明確にしなければならない最重要課題である。この点を勘違いしている指導者たちは、戯画化すると、いや、現実の姿としても、教育勅語のごとき心構えを、社員に唱和させて満足するような単純な輩である。このような組織には理念も思想もない。もし、敢えてこのような錯誤を言葉にするならば、社員の会社に対する忠誠心を古めかしい形式を使って刷り込んでいるだけのことである。この種の単純さは、どのような環境においても割り切りの出来る社員を、心の底でせせら笑わせているだけで、如何なる意味においても、会社の発展などあり得ないのである。だからこそ、あくまで指導者の責任は重い。この種の会社はいずれ倒産の憂き目に遭うだけのことだからである。

アメリカン・ドリームなどという理念が現代のアメリカに残っているとも思えないが、会社の経営者が、経営の危機に瀕してさえも、想像外の多額な報酬を我がものとするようなことが起こる。本来公的な存在でもあるはずの会社組織を、完全に私物化してしまうような、エゴイステックな経営者が、たとえばバブルの時期には、日本にもチラホラと現れて消えた。当然、そんな会社は倒産し、社員は生活の危機に直面させられることになった。思想のない拝金主義などは、利益の社会還元がまったく視野にも入っていないために、公的な役割も果たせないままに会社の命は果てる。当然の結末なのである。

現代のような先行きの視えない時代にこそ、会社組織としての指導者が、己れの会社の存在理由を明確に思想化し、また会社の利潤のあり方を社会化し、組織員としての社員に対して、指導者と同次元の情報を開示しなければ、いまの時代を生き残ることは困難である。社員一人一人が、経営者の感覚をもち得たとき、日常の小さな商談の中に、社運を賭けた決意で臨むことが出来るのである。このようなかたちを創り上げたら、指導者は会社の指導方針のあり方を常に柔軟に軌道修正するだけでよい。再度書くまでもないことだが、思想の土台を揺るがしてはならない。ましてや、リストラという名の首切りなど、業績が悪くなったといって、安易に行うべきではない。

具体的な例を一つ。日本の政府が肩入れをして巨大組織に成り上がったJALが倒産の憂き目にあったのは、指導者がお役所仕事の思想性しか持ち得なかったからであり、社員にしても、自分の営為工夫を具現化する機会がないままに、今日を迎えたからである。上記したような会社組織のあり方を変えるのに、アメーバ方式などという経営の方法論を導入した人々がいる。いまは呼称などどうでもよいが、京セラの稲盛氏が、JALの再建のために社長に就任したことは記憶に新しい。彼が特異な存在であるのはまさにアメーバ方式による会社経営を実践して成功したからだが、屋台骨の腐ったJALは、それでも再建は困難な様子で、大量の社員の解雇が行われた。尋常ではないコスト削減が実行されたというわけである。稲垣氏にあってこれだから、これまでのJALの指導者がいかに惰眠を貪るかのような経営に甘んじていたかが伺い知れる。指導者は、その名に恥じない指導者であれ!そうでない指導者を上に頂いた社員は、能力なき指導者たちに、指導理念の何たるかを悟らせるくらいの意気込みがなくてはならない。単なる帰属意識に甘んじていては、この厳しい状況を乗り切るのは難しいのだから。もはや、植木等の「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ~」とは歌ってはいられない時代に突入したのである。心しようではないか。

文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃