この書は、2003年11月15日初版発行ということになっている。所謂文学評論集だが、どちらかと云えば、文学というジャンルを通して、哲学的な領域に踏み込んだ、素人考えだが、かなり野心的な試みだった、と思う。帯には、「この世の中の誰一人読んでくれないのかも知れない。が、僕の裡には、いや、そういうことはおこらないであろう、という確信のような気分も同時にある。その気分に根拠はない。根拠はないが祈りのような気持ちはある。同じ祈りに似た気持ちを持ち合わせてくれる人はたぶん、数多くとは云わないが、複数の人々としては存在すると思う。僕はそのことにかけても生きる意味があると思っているのである。」と恥ずかしげもなく書いている。7年前の心境である。恥ずかしいが、しかし、いまもあまり人気のない長文のブログを書き続けているのは、そのうちに評論集としてまとめて出版する意欲をずっと抱え持っているからだろう。力なくも、意欲だけは人一倍なのである。それ故の失敗の方が実人生には多く生起する。致し方なし、か。すっかり忘れていたが、この書の巻頭には、G・ジンメル「日々の断層」の一節を引用している。それは、「人間の心というのは、役に立たぬ手段で行う最大の宇宙的な試みである」という言葉である。
敢えてこの言葉を巻頭に掲げたのは、自分の人生に対して敢えて何ほどかの意味を与えたかったからだろうと思う。この頃僕はかなり行き詰っていたはずである。生活のめども立たず、それでいて、生活者として明日の食いぶちを得るだけの仕事にも意味が見出せず、自己表出の欲動だけに突き動かされていたと思う。
書き挑んだ著者は、モーリス・ブランショ、アルベール・カミュ、ポール・オースター、辻仁成、日野敬三、椎名麟三、開高健、山川健一、島田雅彦である。これら作者の生に対する思想はそれぞれかなり異なった様相を呈しているが、しかし、すべての著者に通底している大切なファクターもある。それを日常言語で敢えて云えば、生の生き難さを筆者たちの思想の中で浄化するプロセスが、各々の作家たちの作品になっているということなのである。いかにも硬質な作品もあるが、またその一方で、センチメンタリズムの極北のごとき作品もある。しかし、その現れ、作品のありようがどうであれ、彼らに共通している思索の跡に、人間に対する深い洞察と、生と死の意味についての同様の深い洞察が在る。ある意味において、僕の作品解釈は、上記の作家たちの思想や言葉の集合体を、僕の脳髄の中の濾過装置の中をくぐらせることで、生活言語としての、僕なりの思索の跡にもなり得ている、と言っては自己満足が過ぎるだろうか。
この書を出した出版社は残念ながら倒産し、いまは、この書は手に入らない。僕自身が長い間、最初に書いたように消失していた書である。僕の「京都カウンセリングルーム」(http://www.counselor-nagano.jp/)の書籍紹介には写真入りで載ってはいるが、みなさんに読んでいただけないのが残念無念であるので、現在、この書をクリックしていただければ、私の作品が読めるようにしようとしている作業の真っ最中である。興味のある方は、もうしばらくご辛抱いただければ、と思う。僕もそろそろ長編小説を書くべき時期に来ていると思っているので、いまは作品の構想のメモ書きをはじめている。また、新たな評論集になり得る作品を私が書き綴ってきたブログの中から拾い出そうとしている真っ最中でもある。しかし、そのような試みの中には、僕が生きた足跡を残すなどという意味合いはない。無神論者なのである。死して何かを残そうなどとは考えてもいないが、いまの試みは、僕の生きるプロセスで噴出するエネルギーが自己の存在を突き動かしているもの、と考えていただければ幸いである。今日の観想とする。
京都カウンセリングルーム
敢えてこの言葉を巻頭に掲げたのは、自分の人生に対して敢えて何ほどかの意味を与えたかったからだろうと思う。この頃僕はかなり行き詰っていたはずである。生活のめども立たず、それでいて、生活者として明日の食いぶちを得るだけの仕事にも意味が見出せず、自己表出の欲動だけに突き動かされていたと思う。
書き挑んだ著者は、モーリス・ブランショ、アルベール・カミュ、ポール・オースター、辻仁成、日野敬三、椎名麟三、開高健、山川健一、島田雅彦である。これら作者の生に対する思想はそれぞれかなり異なった様相を呈しているが、しかし、すべての著者に通底している大切なファクターもある。それを日常言語で敢えて云えば、生の生き難さを筆者たちの思想の中で浄化するプロセスが、各々の作家たちの作品になっているということなのである。いかにも硬質な作品もあるが、またその一方で、センチメンタリズムの極北のごとき作品もある。しかし、その現れ、作品のありようがどうであれ、彼らに共通している思索の跡に、人間に対する深い洞察と、生と死の意味についての同様の深い洞察が在る。ある意味において、僕の作品解釈は、上記の作家たちの思想や言葉の集合体を、僕の脳髄の中の濾過装置の中をくぐらせることで、生活言語としての、僕なりの思索の跡にもなり得ている、と言っては自己満足が過ぎるだろうか。
この書を出した出版社は残念ながら倒産し、いまは、この書は手に入らない。僕自身が長い間、最初に書いたように消失していた書である。僕の「京都カウンセリングルーム」(http://www.counselor-nagano.jp/)の書籍紹介には写真入りで載ってはいるが、みなさんに読んでいただけないのが残念無念であるので、現在、この書をクリックしていただければ、私の作品が読めるようにしようとしている作業の真っ最中である。興味のある方は、もうしばらくご辛抱いただければ、と思う。僕もそろそろ長編小説を書くべき時期に来ていると思っているので、いまは作品の構想のメモ書きをはじめている。また、新たな評論集になり得る作品を私が書き綴ってきたブログの中から拾い出そうとしている真っ最中でもある。しかし、そのような試みの中には、僕が生きた足跡を残すなどという意味合いはない。無神論者なのである。死して何かを残そうなどとは考えてもいないが、いまの試みは、僕の生きるプロセスで噴出するエネルギーが自己の存在を突き動かしているもの、と考えていただければ幸いである。今日の観想とする。
京都カウンセリングルーム