○「ことばの力」考
自覚的・無自覚的であるか否かという概念を考慮の中に入れたとして、人間の行動のすべては、自分の脳髄の中の想念によって引き起こされるものであると規定しても、それを極論だとは言えないだろう。想念を思想と言い換えてもよいが、それらは、すべてことばによって構築された、まとまりのある概念である。そう、人間の行動、実践は、すべからくことばの裏づけがあって初めて成立するのである。
言うまでもなく、人間の行動・実践には高潔さから、下卑た低次元のものまで存在する理由は、行動者・実践者のことばの次元の高低によって決定づけられる。ことばに力がある、というのは、ことばの発信者の、ことばによる思念・思考の内実がことばを受ける側の思念・思想を凌駕し、変革し得る場合に限る。また同時に、発信者のことばが、ことばの概念性そのものによって閉塞したものであれば、他者の言動に変化を与える力はないし、その逆に、発信者のことばに、思念・思想の構築力と同時に、それが発信者のことばを受動する側の人間に実践力を喚起するものであれば、発信者のことばによる世界像は、限りなく外に向かって広がっていくものである。換言すれば、人間の行動や実践における高潔さとは、ことばの力によって、常に広がりのある世界観を有した代物であり、下劣なそれとは、ことばそのものが、閉塞的であり、自閉していく、保守的な存在である。
少々過大に規定した感もあるにせよ、かつてマクルーハンは、メディアこそが、マスとしての人間に対して、もっとも有効なメッセージを与え得ると、現代社会の一側面の現象を鋭く見抜いていたのである。現代において、メディアという範疇に入る代表的なものとして、紙媒体としての新聞・雑誌・小説・哲学・・・・という数多きジャンルが存在する。また、時代を反映してか、紙媒体が、コンピュータを介したデジタル媒体への移行に移ろうとしている時代でもある。また、絵画や音楽や映像ですら、デジタルという信号に変換し得る時代でもある。しかし、そもそもデジタル化以前の時代における、他者の存在を前提にしたあらゆるジャンルにおいても、あるいは、目を見張るようなスピードであらゆる言語媒体がデジタル化されつつある今日においても、人間が他者に向けて何ものかを発信する限りにおいては、媒体の如何を問わず、発信者の並々ならぬ、ことばを媒体とする他者への意思伝達ーそれが実は思想というものに深く根ざしているわけなのだがーとは、ことばによる他者の変容を迫るかなりアグレッシブな実践的行為だということが出来るのではないか、と僕は近頃考えているのである。ことばの力とは、このような具体的・実践的な営みに必要な尽きることなき水源のごときものである。人が生き抜く限り、人は、このような自=他という図式の変容と強化のプロセスの中に投げ出されているようなものなのである。その意味合いにおいて、人が生き抜くための不可欠な要素とはただ一つ。それがことばの力である。
前記した意味におけることばの力における反措定。それは、他者への意識的な影響力を、あるいは働きかけを投げ出したような言語交流である。昨今の流行にいちゃもんをつける意図はない。が、たとえば、twitterという140文字内のまさにことばどおりの呟きに、呟き手の側の他者に対する強い説得的意図は伺えない。たとえ、ひとつの呟きに対して、すぐに数多くのfollowersがついたにしても、その中の呟きに、たとえば、演説のごとき、あるいはアジテーションのごとき、強き説得的意思が在るか?否である。無論、twitterの反響の大きさを揶揄しているのではない。しかし、あるはじまりの呟きが、世界的規模の声になったとしても、それは、偶発的な呟きの重層的な現れに過ぎない。その意味で、呟きは、マスのさらなる大衆化という意味での位置づけが妥当である。
ここで、僕は敢えて、朴訥なことばの力の高め方について、あまりにありふれたことを書き記す。それは、孤独な読書体験の必要性だ。啓発書や、エンタメの類の読み物でなく、血肉の通った創作作品に対する傾斜の必要性だ。難解なものであれば、わからないままに読み進めるだけの忍耐の必要性だ。このような孤独な知的作業を抜きにしては、自分のことばの力が、他者に対する積極的な影響力を持つことはあり得ない。時代に逆行しているのかも知れないが、敢えてここに書き記す。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
自覚的・無自覚的であるか否かという概念を考慮の中に入れたとして、人間の行動のすべては、自分の脳髄の中の想念によって引き起こされるものであると規定しても、それを極論だとは言えないだろう。想念を思想と言い換えてもよいが、それらは、すべてことばによって構築された、まとまりのある概念である。そう、人間の行動、実践は、すべからくことばの裏づけがあって初めて成立するのである。
言うまでもなく、人間の行動・実践には高潔さから、下卑た低次元のものまで存在する理由は、行動者・実践者のことばの次元の高低によって決定づけられる。ことばに力がある、というのは、ことばの発信者の、ことばによる思念・思考の内実がことばを受ける側の思念・思想を凌駕し、変革し得る場合に限る。また同時に、発信者のことばが、ことばの概念性そのものによって閉塞したものであれば、他者の言動に変化を与える力はないし、その逆に、発信者のことばに、思念・思想の構築力と同時に、それが発信者のことばを受動する側の人間に実践力を喚起するものであれば、発信者のことばによる世界像は、限りなく外に向かって広がっていくものである。換言すれば、人間の行動や実践における高潔さとは、ことばの力によって、常に広がりのある世界観を有した代物であり、下劣なそれとは、ことばそのものが、閉塞的であり、自閉していく、保守的な存在である。
少々過大に規定した感もあるにせよ、かつてマクルーハンは、メディアこそが、マスとしての人間に対して、もっとも有効なメッセージを与え得ると、現代社会の一側面の現象を鋭く見抜いていたのである。現代において、メディアという範疇に入る代表的なものとして、紙媒体としての新聞・雑誌・小説・哲学・・・・という数多きジャンルが存在する。また、時代を反映してか、紙媒体が、コンピュータを介したデジタル媒体への移行に移ろうとしている時代でもある。また、絵画や音楽や映像ですら、デジタルという信号に変換し得る時代でもある。しかし、そもそもデジタル化以前の時代における、他者の存在を前提にしたあらゆるジャンルにおいても、あるいは、目を見張るようなスピードであらゆる言語媒体がデジタル化されつつある今日においても、人間が他者に向けて何ものかを発信する限りにおいては、媒体の如何を問わず、発信者の並々ならぬ、ことばを媒体とする他者への意思伝達ーそれが実は思想というものに深く根ざしているわけなのだがーとは、ことばによる他者の変容を迫るかなりアグレッシブな実践的行為だということが出来るのではないか、と僕は近頃考えているのである。ことばの力とは、このような具体的・実践的な営みに必要な尽きることなき水源のごときものである。人が生き抜く限り、人は、このような自=他という図式の変容と強化のプロセスの中に投げ出されているようなものなのである。その意味合いにおいて、人が生き抜くための不可欠な要素とはただ一つ。それがことばの力である。
前記した意味におけることばの力における反措定。それは、他者への意識的な影響力を、あるいは働きかけを投げ出したような言語交流である。昨今の流行にいちゃもんをつける意図はない。が、たとえば、twitterという140文字内のまさにことばどおりの呟きに、呟き手の側の他者に対する強い説得的意図は伺えない。たとえ、ひとつの呟きに対して、すぐに数多くのfollowersがついたにしても、その中の呟きに、たとえば、演説のごとき、あるいはアジテーションのごとき、強き説得的意思が在るか?否である。無論、twitterの反響の大きさを揶揄しているのではない。しかし、あるはじまりの呟きが、世界的規模の声になったとしても、それは、偶発的な呟きの重層的な現れに過ぎない。その意味で、呟きは、マスのさらなる大衆化という意味での位置づけが妥当である。
ここで、僕は敢えて、朴訥なことばの力の高め方について、あまりにありふれたことを書き記す。それは、孤独な読書体験の必要性だ。啓発書や、エンタメの類の読み物でなく、血肉の通った創作作品に対する傾斜の必要性だ。難解なものであれば、わからないままに読み進めるだけの忍耐の必要性だ。このような孤独な知的作業を抜きにしては、自分のことばの力が、他者に対する積極的な影響力を持つことはあり得ない。時代に逆行しているのかも知れないが、敢えてここに書き記す。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃