○永遠という概念が、生きるための欲動と通底しているんだ、と思う。
人間の生そのものが永遠という概念とは無縁の、ごくいっときの、この世界の現れに過ぎないのに、やはり人間は、生きるための何がしかの虚構、あるいは、それを物語と規定しても差し支えないが、自己が生きている間は、<意識>の永続性が永遠性と繋がっていなければ、社会という器の中で生き抜くことが出来ないらしい。
言うまでもないことだが、人が生きていると実感できるのは<意識>の領域である。<意識>は理性と情緒を兼ね備えているものだから、理性の側面では、生の終焉についての認識を持つに至るはずである。しかし、その認識とは常に薄皮が覆っていて、すっきりとした像を結ばないのが通常の姿であろう。人間の死についての<意識>のあり方とは実に滑稽な要素を持っていて、一方で死の準備として、ある意味酷薄な生命保険というシステムの中に自己の死を投げ入れるかと思えば、それと平行するように、過剰な健康志向とガン検診を含む健康診断ブームの到来。社会構造が根本的に瓦解しない限り、どんなに不況の嵐が吹き荒れようと、生命保険会社は、儲け続けるし、ガン検診を含めた健康診断を手がける医療機関も儲け続けるのである。若い頃は結構シリアスな映画で評価された地井武男なんていう役者が、ギャラがいいのだろうか、ある保険会社の老年向きの保険の宣伝をやっていた。まるで年寄りを騙して金をクスね取る詐欺師のような顔つきになるから、こういう役どころの顔つきに自然になっているんだな、と、妙に納得してしまう。地井武男曰く、「お葬式代だって保証されているんですよ、ねえ、おとうさん、おかあさん!」だって。残酷さが行き着く果ては、やはり滑稽という概念なんだ、と今更ながら胸に落ちる。とかなり前にこれを書いていたら、地井武男自身があっけなく逝ってしまった!
人が生きるというのは、あくまで自己の死を意識しないことを内包している。意識しないどころか、心のどこかで、自分の死は永遠の宙吊り状態であって、決して具体性を帯びた想像などは訪れはしない。その意味で、人の死生観は、情緒的な感性によって支配されていると言って過言ではないだろう。しかし、その一方で、自己の生が限られたものでしかない、という認識を理性的に同時に分かち持つ。このような精神のアンビバレンスに食い込んで来るのが、生命保険会社と検診ブームという、発想のベクトルとしては、真逆の現代的戯画が同居するというおかしな現象である。
永遠という概念性の究極の姿は、太古の昔から、さまざまなかたちの絶対者=神という創造者の創作によって、人間は自ら、生きるための欲動を刺激し、鼓舞する。現代という時代において、この日本において、少数の各々の神の信仰者を除けば、大抵の人間は、実質的な無神論者に近い。では、彼らは何にすがることで、生の永遠性を擬似的であれ、それを諒解するのか?まとめて言えば、社会性を含んだ環境に身を浸すことによって、と書き記せば誰もが思い当たるはずである。ごく私的な経験を一つ書き置く。教師時代に、気の合った年配の教師が二人いた。お二人とも自分の世界をそれぞれに持っている人で、学校で教鞭をとるのが嫌いだというのが口癖だった。いまもそういう教師がいるのかどうかは知らないが、ともあれ、そのお二人は、授業が終わるとそそくさと校門を車で走りぬけて各々の世界へと帰還していかれたものだった。時期は数年ずれるが、お二人とも50代前半に末期ガンと診断されて、さて、それからがたいへんだった。あれだけ忌避していた学校へ動かぬ体を引きずるようにして、教室に行く。とても積極的に、そして能動的に。お二人ともに仕事を慈しむようにこなしていく。淡々と。しかし、なにせ末期ガンにて体力は日に日に衰える。教壇に立っていられず椅子に腰を降ろしたまま、生徒の方を見つめながら真剣に語りかける。廊下を通りかかると、その様がありありと伝わってくる。高校生ともなれば、生徒も何が起こっているのかを察する。騒がしい生徒もいるのに彼らの授業中は、まさに水を打ったように静まりかえっている。いろいろな想いが錯綜しながらの静けさなのだろうけれど、日常語で言えば、まさにドン引き状態。それでもお二人ともに死の直前までこれまで見たこともないくらいに、まじめに?学校へやってきては、それこそクソがつくほどにまじめに授業をこなす。生徒にとっては、ドン引きのそれを。
彼らにとって、これまで忌避してきた環境であれ、そこに長年勤め上げてきたのである。職場にさえ行けば、末期ガンそのものが、悪い冗談で、これまでのような日常がずっと続くと思っていたフシがある。彼らにおける擬似的永遠性への希求だったと思う。翻って考えれば、やはり、生き続けるには、人はそれなりの動機が必要なのだろう。具体的な現れは人それぞれだとしても、永遠への渇望が生きることの根源的なファクターになっていることは、たぶん否定し切れない事実だろう。死を決意したとき、人は永遠への欲動を同時に棄てたときだ。そんなことを考えつつ書き遺す。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人間の生そのものが永遠という概念とは無縁の、ごくいっときの、この世界の現れに過ぎないのに、やはり人間は、生きるための何がしかの虚構、あるいは、それを物語と規定しても差し支えないが、自己が生きている間は、<意識>の永続性が永遠性と繋がっていなければ、社会という器の中で生き抜くことが出来ないらしい。
言うまでもないことだが、人が生きていると実感できるのは<意識>の領域である。<意識>は理性と情緒を兼ね備えているものだから、理性の側面では、生の終焉についての認識を持つに至るはずである。しかし、その認識とは常に薄皮が覆っていて、すっきりとした像を結ばないのが通常の姿であろう。人間の死についての<意識>のあり方とは実に滑稽な要素を持っていて、一方で死の準備として、ある意味酷薄な生命保険というシステムの中に自己の死を投げ入れるかと思えば、それと平行するように、過剰な健康志向とガン検診を含む健康診断ブームの到来。社会構造が根本的に瓦解しない限り、どんなに不況の嵐が吹き荒れようと、生命保険会社は、儲け続けるし、ガン検診を含めた健康診断を手がける医療機関も儲け続けるのである。若い頃は結構シリアスな映画で評価された地井武男なんていう役者が、ギャラがいいのだろうか、ある保険会社の老年向きの保険の宣伝をやっていた。まるで年寄りを騙して金をクスね取る詐欺師のような顔つきになるから、こういう役どころの顔つきに自然になっているんだな、と、妙に納得してしまう。地井武男曰く、「お葬式代だって保証されているんですよ、ねえ、おとうさん、おかあさん!」だって。残酷さが行き着く果ては、やはり滑稽という概念なんだ、と今更ながら胸に落ちる。とかなり前にこれを書いていたら、地井武男自身があっけなく逝ってしまった!
人が生きるというのは、あくまで自己の死を意識しないことを内包している。意識しないどころか、心のどこかで、自分の死は永遠の宙吊り状態であって、決して具体性を帯びた想像などは訪れはしない。その意味で、人の死生観は、情緒的な感性によって支配されていると言って過言ではないだろう。しかし、その一方で、自己の生が限られたものでしかない、という認識を理性的に同時に分かち持つ。このような精神のアンビバレンスに食い込んで来るのが、生命保険会社と検診ブームという、発想のベクトルとしては、真逆の現代的戯画が同居するというおかしな現象である。
永遠という概念性の究極の姿は、太古の昔から、さまざまなかたちの絶対者=神という創造者の創作によって、人間は自ら、生きるための欲動を刺激し、鼓舞する。現代という時代において、この日本において、少数の各々の神の信仰者を除けば、大抵の人間は、実質的な無神論者に近い。では、彼らは何にすがることで、生の永遠性を擬似的であれ、それを諒解するのか?まとめて言えば、社会性を含んだ環境に身を浸すことによって、と書き記せば誰もが思い当たるはずである。ごく私的な経験を一つ書き置く。教師時代に、気の合った年配の教師が二人いた。お二人とも自分の世界をそれぞれに持っている人で、学校で教鞭をとるのが嫌いだというのが口癖だった。いまもそういう教師がいるのかどうかは知らないが、ともあれ、そのお二人は、授業が終わるとそそくさと校門を車で走りぬけて各々の世界へと帰還していかれたものだった。時期は数年ずれるが、お二人とも50代前半に末期ガンと診断されて、さて、それからがたいへんだった。あれだけ忌避していた学校へ動かぬ体を引きずるようにして、教室に行く。とても積極的に、そして能動的に。お二人ともに仕事を慈しむようにこなしていく。淡々と。しかし、なにせ末期ガンにて体力は日に日に衰える。教壇に立っていられず椅子に腰を降ろしたまま、生徒の方を見つめながら真剣に語りかける。廊下を通りかかると、その様がありありと伝わってくる。高校生ともなれば、生徒も何が起こっているのかを察する。騒がしい生徒もいるのに彼らの授業中は、まさに水を打ったように静まりかえっている。いろいろな想いが錯綜しながらの静けさなのだろうけれど、日常語で言えば、まさにドン引き状態。それでもお二人ともに死の直前までこれまで見たこともないくらいに、まじめに?学校へやってきては、それこそクソがつくほどにまじめに授業をこなす。生徒にとっては、ドン引きのそれを。
彼らにとって、これまで忌避してきた環境であれ、そこに長年勤め上げてきたのである。職場にさえ行けば、末期ガンそのものが、悪い冗談で、これまでのような日常がずっと続くと思っていたフシがある。彼らにおける擬似的永遠性への希求だったと思う。翻って考えれば、やはり、生き続けるには、人はそれなりの動機が必要なのだろう。具体的な現れは人それぞれだとしても、永遠への渇望が生きることの根源的なファクターになっていることは、たぶん否定し切れない事実だろう。死を決意したとき、人は永遠への欲動を同時に棄てたときだ。そんなことを考えつつ書き遺す。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃