○人を信用すること。
人を信用しようとしても、人間の悪意のごときものが見え過ぎて、人は、自分のまっとうな直感すら信じられなくなっているのが、現代という時代性ではなかろうか。無論、今日のテーマで書き始めているからといって、僕は決して、無条件な性善説を信じているのではない。悪しき条件下で、時と場合と条件が負の連鎖で重なれば、人間は悪魔的な存在になり得ることもよく承知した上で、人を信用するとはいったいどういうことなのかを語りたいのである。
敢えて、使い古されてすでに忘却の彼方に投げ捨てられであろう概念を持ち出す。形而下と形而上という概念性である。日本の戦後民主主義という歴史的背景の中では、この両者の概念は、政治的左翼思想とむすびついて感得されていたものだろうが、政治性を排斥した、純粋哲学的用語としての、形而下的、形而上的という規定をした上で、拙く語る。
現代において、文字どおり食えないという事態は想起し難い。ここで云う、食える、食えないというのは、生活の質のことではない。人間が生きるために最低限必要な諸要素が整うかどうか、という意味における規定である。その意味では、不景気、失業率の高低も、敢えて極論的に云うならば、ホームレスといえど、食えるか否かという次元の問題としては食える存在ということになる。
ある種の人々は云うだろう。食うや食わずの生活を強いられれば、品性下劣で、人としてあるまじき感性しかもち得なくなるだろう、と。否定はしない。確かに生活の困窮は、精神の拠りどころを奪い、世界を呪詛するようになる可能性が強い。そうなれば、当然のことだが、他者という存在は眼中に入らなくなる。多くの人々は、生活が成立しない状況下に置かれると、このような自己本意の心境に陥る可能性が高い。無論、このような状況においても、心的高潔さを保ち続けることの出来る人も当然だが存在し得る。ただ、形而下的な要素が整わなければ、人間の多くは小さな銭金に執着し、弱肉強食たる日常性へと回帰する。それを頽落と称しておくことにする。その意味で、形而下的な条件が整うということがいかに大切か、という視点は失わないでおきたいと思う。
しかし、形而上的な思念は、形而下的土台がなければ止揚し得ないものだ、というような表層的な哲学理解には、是とし得ないものがある。形而上的なるものと形而下的なるものは、人間存在にとって、抜きがたい二要素には違いないが、形而下的な土台が整わなければ、人は形而上的な思想、特に高潔な思想を構築出来ないと思い込むと、僕たちの身の回りで起こる現象のあれこれの説明がつかなくなる。形而下的土台が十全に整えば、心卑しくならずに済む人々の絶対数は確実に増えるとは思う。その意味で、形而下的なるものの整備と充実は意味あるものだと僕は考える。が、同時に、形而下的なる要素を十全に保持している人間の中には、相当に品性下劣な輩がいるのも確かなのである。この種の輩の多くは、他者との考え方の違いを認めることが出来ず、ただただ、己れの利益に繋がる視点でしか物事を捉えることが出来ない。とりたてて銭金に窮してもいないのに、いや、むしろ豊かですらあるのに、金銭の追求が生きる目的とスリかわっているような卑しき精神性の持ち主たちだ。銭を抱えて棺オケに納まりたいのではなかろうか、と思わせる。ここで云う<卑しい>とは、敷衍して云うならば、銭金に執着し過ぎると、他者は己れの銭金を増やしてくれる対象か否かという視点でしか捉えられなくなる。当然、彼らの信用の尺度は、人ではなく、金のあるなし、である。
きちんとした精神性を有していれば、卑しき人々を文字通り卑しいと認識出来るのだろうが、なにせ、この世の中、人の社会的信用度は、銭金の高によって判断される。いくら良い心性とアイデアをもった人間と云えど、たとえば、銀行にでも出向いて起業の相談でもしてごらんになるとよい。預貯金があるか否か、相応の稼ぎがあるかどうか、担保物件が整っているかどうか、そういうことだけで人の評価が決まる。人の高潔さとかアイデアのすばらしさなどは考慮の対象には入らない。人間の社会の進歩が20世紀と大して変わらず、それぞれの局面において、ずっと悪化しているのは、人を信用する尺度が、ますますいま、ここの、銭金の高だけで評価されるような社会になってしまったからだろう。金融資本主義といい、それを支えている金融工学などという、もったいつけた詐欺まがいの、実業とは無縁の集金システムが、人間の価値観を歪め切ったのではなかろうか。
人は、確かに止めどなく堕落していく心性から自由ではない。とはいえ、堕落を超克するごとき高貴な精神性も同時に分かち持ってもいる。形而下的な土台はしっかりと社会的・政治的視点から整えていけばよい。同時に、形而上的な要素を置き忘れぬことである。他者を信用し切ること。これは、人間にとって、おそらくもっとも高貴な心性のひとつであるだろうからである。他者を信用することなしに、十全な形而下的土台も構築できない。確信を持ってそう断言する。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人を信用しようとしても、人間の悪意のごときものが見え過ぎて、人は、自分のまっとうな直感すら信じられなくなっているのが、現代という時代性ではなかろうか。無論、今日のテーマで書き始めているからといって、僕は決して、無条件な性善説を信じているのではない。悪しき条件下で、時と場合と条件が負の連鎖で重なれば、人間は悪魔的な存在になり得ることもよく承知した上で、人を信用するとはいったいどういうことなのかを語りたいのである。
敢えて、使い古されてすでに忘却の彼方に投げ捨てられであろう概念を持ち出す。形而下と形而上という概念性である。日本の戦後民主主義という歴史的背景の中では、この両者の概念は、政治的左翼思想とむすびついて感得されていたものだろうが、政治性を排斥した、純粋哲学的用語としての、形而下的、形而上的という規定をした上で、拙く語る。
現代において、文字どおり食えないという事態は想起し難い。ここで云う、食える、食えないというのは、生活の質のことではない。人間が生きるために最低限必要な諸要素が整うかどうか、という意味における規定である。その意味では、不景気、失業率の高低も、敢えて極論的に云うならば、ホームレスといえど、食えるか否かという次元の問題としては食える存在ということになる。
ある種の人々は云うだろう。食うや食わずの生活を強いられれば、品性下劣で、人としてあるまじき感性しかもち得なくなるだろう、と。否定はしない。確かに生活の困窮は、精神の拠りどころを奪い、世界を呪詛するようになる可能性が強い。そうなれば、当然のことだが、他者という存在は眼中に入らなくなる。多くの人々は、生活が成立しない状況下に置かれると、このような自己本意の心境に陥る可能性が高い。無論、このような状況においても、心的高潔さを保ち続けることの出来る人も当然だが存在し得る。ただ、形而下的な要素が整わなければ、人間の多くは小さな銭金に執着し、弱肉強食たる日常性へと回帰する。それを頽落と称しておくことにする。その意味で、形而下的な条件が整うということがいかに大切か、という視点は失わないでおきたいと思う。
しかし、形而上的な思念は、形而下的土台がなければ止揚し得ないものだ、というような表層的な哲学理解には、是とし得ないものがある。形而上的なるものと形而下的なるものは、人間存在にとって、抜きがたい二要素には違いないが、形而下的な土台が整わなければ、人は形而上的な思想、特に高潔な思想を構築出来ないと思い込むと、僕たちの身の回りで起こる現象のあれこれの説明がつかなくなる。形而下的土台が十全に整えば、心卑しくならずに済む人々の絶対数は確実に増えるとは思う。その意味で、形而下的なるものの整備と充実は意味あるものだと僕は考える。が、同時に、形而下的なる要素を十全に保持している人間の中には、相当に品性下劣な輩がいるのも確かなのである。この種の輩の多くは、他者との考え方の違いを認めることが出来ず、ただただ、己れの利益に繋がる視点でしか物事を捉えることが出来ない。とりたてて銭金に窮してもいないのに、いや、むしろ豊かですらあるのに、金銭の追求が生きる目的とスリかわっているような卑しき精神性の持ち主たちだ。銭を抱えて棺オケに納まりたいのではなかろうか、と思わせる。ここで云う<卑しい>とは、敷衍して云うならば、銭金に執着し過ぎると、他者は己れの銭金を増やしてくれる対象か否かという視点でしか捉えられなくなる。当然、彼らの信用の尺度は、人ではなく、金のあるなし、である。
きちんとした精神性を有していれば、卑しき人々を文字通り卑しいと認識出来るのだろうが、なにせ、この世の中、人の社会的信用度は、銭金の高によって判断される。いくら良い心性とアイデアをもった人間と云えど、たとえば、銀行にでも出向いて起業の相談でもしてごらんになるとよい。預貯金があるか否か、相応の稼ぎがあるかどうか、担保物件が整っているかどうか、そういうことだけで人の評価が決まる。人の高潔さとかアイデアのすばらしさなどは考慮の対象には入らない。人間の社会の進歩が20世紀と大して変わらず、それぞれの局面において、ずっと悪化しているのは、人を信用する尺度が、ますますいま、ここの、銭金の高だけで評価されるような社会になってしまったからだろう。金融資本主義といい、それを支えている金融工学などという、もったいつけた詐欺まがいの、実業とは無縁の集金システムが、人間の価値観を歪め切ったのではなかろうか。
人は、確かに止めどなく堕落していく心性から自由ではない。とはいえ、堕落を超克するごとき高貴な精神性も同時に分かち持ってもいる。形而下的な土台はしっかりと社会的・政治的視点から整えていけばよい。同時に、形而上的な要素を置き忘れぬことである。他者を信用し切ること。これは、人間にとって、おそらくもっとも高貴な心性のひとつであるだろうからである。他者を信用することなしに、十全な形而下的土台も構築できない。確信を持ってそう断言する。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃