ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○いまの学校教育、このままでは、うまくいくはずがないだろうに。

2011-08-14 20:17:11 | 学校教育
○いまの学校教育、このままでは、うまくいくはずがないだろうに。

複数の学校関係の知己から聞き知ったことだから、たぶん、現状認識としては間違ってはいないのだろうから、少し書きおくことにする。多少批判的な言辞が混じるのは、僕自身が長年学校で生業を立てていたこともあり、その間に自分の課題として考え、改善の努力をしてきたこととの兼ね合いがあるからだと思っていただければ幸いである。

小学校から高等学校(残念ながら、大学の現状についてはよく分からないのでここでは触れないことにする)における教員の指導体制が殆ど機能不全の状態である。昨今は若い先生方が増えているというから、機能不全の責任は教育の指導者としての管理職者にあるのは疑いを差し挟む余地がない。教育の指導責任者と書いたが、実態から浮かぶ管理職者の実像は、教育の指導者という名称はふさわしくない。むしろ、出来の悪い人事課の課員のようなものだ。大元を手繰れば、教育委員会のあり方がおかしいのである。誤解なきように書いておくが、教育と政治とは車の両輪のようなものである。教育が、三権分立(日本においては、これすらも機能しているのかあやしいものだけれど)のように、権力機構から自立しているものと錯誤している方々が現場の教員の中にもいるようだ。が、実のところは、まったく正反対なのである。教育ほど時の権力と迎合しやすいものはない。というより、教育とは、時の権力を保持する役割を担っているもので、本質論的に保守的である。日本以外の例を出すまでもなく、各国における教育の実態を想起すれば、こういうことはすぐに分かる。とりわけ、独裁政権などの支配下にある国政は、独裁を守るための教育に奔走する。自由な思想を圧殺しなければ、独裁の維持を脅かす最も危険な要素が、教育だからである。これは、民主主義国家と云えども例外ではない。権力を手にした側の政治的指導下に、教育は置かれてしまう宿命を背負っている。民主主義国家においては、独裁政権下よりも、ずっと密やかに支配のあり方が浸透していくので、かえってタチが悪いとも云える。

現在の殆どの学校における教員の評価の基準は何かと云うと、非常に消極的なファクターがその対象となっている。簡単に云うと、生徒に問題を起こさせないという一点にある。無論、思春期の生徒を羊のように飼いならすことなどそもそも出来ることではない。むしろ飼いならしてはいけないのである。生徒にとっては、大切な自立の時期だ。学校の勝手な決まり事に対して反感を抱かせない教育は教育の名に値しない。それは敢えて云うと、飼育である。残念なことに、教員の殆どは教育と云う名の飼育を行っているゆえに、実質的な学校教育の崩壊現象が起こるのである。学校の塀の外からは、このような崩壊現象が見えにくいだけである。

学校の使命は、生徒にしっかりとした学力をつけさせることが基本である。しかし、残念ながら、学力のない教師が多すぎる。昨今はさすがに英語が喋れない教師などいないはずだが、小説を読まない国語教師は腐るほどいる。他の教科における教育力量もたいしたことはないのである。文部科学省のごとき官僚的な発想からすれば、それならば、大学院修了が教員の採用基準だ、と短絡しかねないが、事実はそんなものではない。日本の学校の仕組みがおかしい。教員になったら、クラブ顧問がついてまわる。その他、学内外の数多くの委員会などで、教科指導、学級経営に割く時間が殆どない。世の中は、土日が休みだという風潮なのに、クラブ顧問ともなると、休日すらない教員がいるのである。教科指導など出来るわけがない。いつしか教員の発想が逆転する。クラブ指導が自分の主な仕事だと云うような錯誤を犯すと、程度の低い授業しか出来ない教員が生み出されることになる。基本的に教師は教科指導のプロでなくてはならないはずだ。それは、生徒の学力水準のバカ高いフィンランドの教員の待遇を掲げるまでもないことだろう。

無論、忙しすぎる環境の中でも、生徒指導や教科指導に熱心な教員は確実に存在するが、残念ながら、優秀な教育実践が学年団の中で共有されていない。現状では学年会で、生徒指導の実態が報告され、難しい問題が生起すれば、学年団としての共通課題として、指導課題にするようなことにはなっていない。そうなると、力量のない教員は、自分の担当クラスで起こっている解決すべき問題をひた隠すようになる。当然だ。学年団があっても、実態はバラバラ。個人の能力に委ねられている。これでは、教師の力量が上がるはずがない。当然のことだが、生徒は教員の不協和音を鋭く見抜くから、力のない教師の授業が成立しない。たとえ授業が成立しなくても、取り返しのつかない状況が生じない限り隠蔽されて、そのことが、結局のところ、生徒の不利益にむすびつくのである。根本的な考え方が間違っていると、負の連鎖が起こる。それは企業においても、学校社会においても同じように起こるのである。

教育は、教育環境の中に思想のダイナミズムを投げ入れてナンボのものなのだ。生徒は、大人しくはしていない。表面上のそれは、陰湿ないじめなどを生み落とす。オトナ社会との対峙をする時期が思春期なのである。扱いにくさがあって当然のことだ。それが嫌なら、教師など辞めるべきだ。生徒たちにとって、反抗可能なオトナが教師存在である。そのことを忘れてはならない。当然、教科指導においても、学級経営においても、予測不能なことが起こり得る。それがふつうの姿だ。生徒指導で失策を重ねてもよいのである。失策を重ねて、さて、それからが問題なのである。学年集団の中に、あるいは、学校全体の指導体制の中に、困りごとの実態を勇気を持って報告し、その解決に向けて、集団の力で教師は生徒指導にあたらねば、良き教育の機会(生徒の問題行動の中には、教師にとっては宝のような指導の糸口が見えているからだ)を逃すばかりでなく、生徒の信頼を決定的に失くす。そうなれば、生徒の中で矛盾が拡大し、それが、いじめの主因になる。いじめの実態を見抜けないのは、教師たちが、個々バラバラな状態で生徒に向き合っているからだ。無論、こういうときに、<向き合う>という言葉は妥当ではなく、なにげなく生徒に接しているという方が的を得た表現なのかも知れない。このような折に、生徒に擦り寄る教師がいると最悪である。この手のアホウは自分が生徒の人気を集めていると錯誤しているが、実のところは、生徒にバカにされているのである。知らぬは、当人だけである。しかし、現在のような集団の力を養成しようとせず、学校管理職からのトップダウンの視点が続くと、教育は悪くなる一方である。学校管理職者にあまりまともな人物が登用されないのは、ひとえに教育委員会の人事が、上司に受けがよくなければ出世出来ない、というバカげたことがまかり通っているからに他ならない。

こんな教育環境の中で、まともな感性をお持ちの先生方は、息苦しい毎日を送っているに違いない。教師としての良心で勝負すれば、まず管理職任用試験を受けろというお呼びがかかることはないはずだ。冷や飯を食わされるけれど、冷や飯を食っても、生徒と人間的次元において、同じ目線で向き合ってくれる先生方がいなければ、日本の教育に希望のかけらを見出す手立てがない。まともで賢明な先生方には割に合わない学校社会である。しかし、もし、いま僕に学齢に達した子どもがいたら、ぜひそういう先生方にお任せしたい。割に合わないかも知れないが、割の合わなさを自身の教育的確信にしていただきたい。日本の教育はあなた方の双肩にかかっていることを忘れず、腐らずに日々の教育に邁進していただきたい。心底そう願う。


文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃