ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○ロング・グッドバイ

2011-08-12 10:22:05 | 哲学
○ロング・グッドバイ

わざとらしくレイモンド・チャンドラーの小説のタイトルを借用したのは、これから書き綴ることへの気恥ずかしさのせいだ、たぶん。加えて言うなら、これまで自分を縛り、拘束することで、閉塞していた過去の遺物から解放されるのだろう、という心地よい予測があるからだ。この歳になって言うのもおこがましい気もするが、新たな価値の地平が開けるのではないか、という淡い期待感がないと言えばウソになる。
 
若かった頃の時代的趨勢に僕は押し流された。1970年という時は、程度の差こそあれ、誰それの区別なく、歴史は動くのかも知れないという気分の高揚感を植えつけるのに十分なインパクトを持っていた、と思う。

人間の精神を揺り動かすのは、言葉の力と言葉によって構築された思想だが、それが人間の行動を激変させ、持続的な実践力になるのは、実人生をより豊かにするという希望なしには実現不可能なことである。またこういう認識こそが、人間理解にとっては不可欠な要素でもある。当時の僕にもそれくらいのことは分かっていたはずだ。人間の高揚した気分など長続きしない代物だし、日常性を生きるとは、平坦な生の退屈感を甘受することだということくらいは。

幼い頭脳で読みとるヘーゲルもマルクスもレーニンもトロツキーも毛沢東も、それらの著作は、僕にとって、体制という名の保守的権威に風穴を空けるための用語集としての意味しかなかった。換言すると、当時の政治的なお祭り騒ぎは、僕にとっての、非日常への憧憬を具現化してくれるものでしかなかったのである。とにかく退屈だったのである。あの頃の僕は自分の生の退屈感を紛らわすためなら悪魔にでも魂を売り飛ばしたことだろう。その結末は、僕は自分の人生を台無しにしたとまではいわないが、少なくともかなり歪曲させはしたと思う。いま、これを書きながら、どれほどの長きに渡って生死の境目を彷徨してきたかという、自己憐憫の虜に囚われそうになるくらいには。

さて僕のいまの目測である。権威や権力をカサに来た組織や人間におもねる意思は毛頭ない。しかし、これまでのように、自ら喧嘩は売らない。売られた喧嘩も可能な限り買うことはない。産み出すものなど何もないからだ。残り少なくなったとはいえ、自分と自分をとりまく状況と冷静に対峙しようとしているのだと思う。その上で、無意味な感傷主義的言動は極力差し控える。そうすることで、視えてくるあらゆる事象から学びとる。たぶん(推測の言葉を差し挟むことの情けなさを自覚した上で)、僕は自分の存在を全否定しようとする性向から自由になれることだろう。奥歯を噛み締めて抑え込んだ憤怒の情をキレイさっぱりと忘却の彼方へと追いやることも出来るだろう。そのあとに何が視えてくるのだろうか?僕は、いま、言葉通りの意味で、ワクワクしているのである。僕の裡なるあらゆる負の感情へのロング・グッドバイ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃