ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○(続)いまの学校教育、このままでは、うまくいくはずがないだろうに。

2011-08-16 10:32:43 | 学校教育
○(続)いまの学校教育、このままでは、うまくいくはずがないだろうに。

もはや過去のことになったとは云え、自分が教師と云う仕事を生業にしてきて、身に沁みて感ることは、世の常識が学校空間の中では、必ずしも常識ではない、ということである。勿論、学校社会なりの妥当性があるならば、それも無意味とは言えないだろうが、まったくおかしなことが起こるわけである。学校の常識は世の非常識とでも称したらよい。

具体的に書き出せばキリがないほどに、おかしな素材はたくさんある。まずは、話題を絞る。今日は、教師たちが、それが自らの狭隘な価値意識であっても、柵で囲まれた学校空間の中(意識的に柵をなくしている学校もあるようだが、本質的な問題としては、柵のあるなしに無関係だ)だけで通用することに慣れ切っているということである。それでは、慣れ切ってどうなるか?学校社会の中だけで通用する価値が生まれるということになる。無論、それを創り出す?教師たちの感性は、世界からまったく切り離されたおかしなものになり下がる。最近はマスコミの報道も、教育評論家たちの関心も薄れた感があるが、かつて、学校の校則のバカさ加減がやり玉に上がった時期がある。

代表的なものは、制服を含む服装に関するもの。男子生徒であれば、学ランのカラ―の高さやスラックスの形、髪型等々。女子生徒であれば、スカートの長さや、上着の長さや髪型まで決まっていることがしばしば。ひどいのになると、入学時に女子生徒の髪質を検査する。パーマネントをかけることを禁じたいのである。僕が教師になりたての頃、生活指導(何が生活指導なんだ?)の教師たちが、入学生全員を一人一人チェックする。くせ毛の生徒たちは、くせ毛登録をさせられる。後にパーマをかけたかどうかの証拠資料にするためだ。こういうことが平然となされる。世の常識で云えば、まったくの人権侵害なのに。そもそも生徒が自分の容姿に興味を持って、みんなと同じであることを嫌うという心性は、まっとうな自立のあり方ではなかろうか。学校はある程度の常識を教えればよいのであって、校則という名目で人権無視の抜き打ち検査をし、校則違反?だと判断すれば、罰則が与えられるなどというのは、どう控えめに見ても、生徒の自主性を疎外するとしか思えない。時代の流れで、ファッション感覚は激変する。スカートが長いのが恰好良かった時代が去り、スカートの丈は極端に短くなる。当然教師たちは時代の流れについていけないわけで、校則はどんどん増える。その結果文章化されて残された校則は、笑止に堪えないものになる。何よりも問題なのは、校則さえ創ってしまえば、それが、指導(何が指導なんだろうか?)の指針になるという、教育活動とは到底呼べない判例主義に陥ることを、教師たちが認識していないということである。教師という仕事を辞めて10年以上経過するから、もはやこんなバカげたことはないのだろうと思っていたら、たまたまあるテレビ番組で、おかしな校則の特集をしていたのである。その中でも、こういう校則を文章化することが如何に低劣なことかわかっていない学校のそれを書き置く。曰く、「女子生徒のスカートの陰部に当たるところを5秒だか10秒だかは忘れたが、男児生徒が凝視すると、校則違反である」のだと。こういうことを勝手気儘に校則にしてしまう教師たちは、変態の誹りを免れないことにも気づいていないのである。現代も、学校の常識は、世の笑いのネタになってしまう次元で停止したままであるらしい。学校社会は閉じた世界だという錯誤は、教師の論理であって、一旦、柵の外に出れば、生徒たちは世の価値観に晒される。教師だって同じなのに、どうして閉塞した論理が通用すると思えるのか、不思議でならない。これを読んでくださっている方々は、じゃあ、君は教師として、何をしたのか?と思うでしょうけれど、まことに厳しい闘いではあったにせよ、たくさんのバカげた校則は撤廃しました。勿論人権無視のくせ毛登録は廃止です。しかし、学校の中では、僕のような個性は当然浮きますから、うるさいのがいなくなったら、またつまらない校則を増やしていることは容易に想像出来ます。とまあ、<です・ます>調から転じて、本論にもどる。

価値が学校空間の中に収束してしまうことの愚かしさをもう少し。生徒指導の根幹を決定するべき職員会議のあり方。昨今は教育の右傾化が進んでいると聞く。職員会議は、意見は聞きおくけれど、議論を尽くしたうえで、民主主義的な多数決原則でさまざまな問題が議決されていくと思いきや、現実はそうではない。大抵の学校では、職員会議の決定権は校長をはじめとするする管理職者に委ねられている。これでは、一般の教員から広く意見を聞くという前提が事のはじまりから崩れている。教師たちがこのような環境があたりまえだと錯誤するようになれば、当然、クラスにおける生徒たちの議論など保障されるわけがない。教師がもの云わぬ人間になり下がっていて、どうして生徒たちに自由な意見を言う場を保障出来るというのだろうか?無理だろう。昔、昔、京都には春季討論集会というものがあった。学校の枠を超えて、毎年春になると、府立高校を会場にして、公立、私立高校の生徒たちが、テーマごとに分散会で自由に意見を述べ合うという日本でも画期的な試みがあったのである。教育が右傾化することの最大の問題点は、生徒に、あるいは教師に自由にものを言わせなくすることにある。京都府政が右傾化したら、教育委員会が、府立高校の校長に命じて、春季討論集会の会場を貸さないように命じたのである。バカは、教育からダイナミズムを奪うことに躍起になる。京都のいまどきの高校教師たちは、春季討論集会の存在すら知らない世代の人たちで占められているのではないだろうか。

職員会議の問題にもどる。たとえば、企業においても、会社の経営実態を分析するとき、新たなプロジェクトを立ち上げるとき、企画書を提出するだろう。そしてプレゼンを一生懸命にやるだろう。学校だって本来は組織体としては同じことなのである。年度当初には、各校務分掌から文書で方針の提案がなされてしかるべきだし、年度内のいちいちの取り組みにおいても、企画書の提案がなされるべきなのである。年度末には、一年の取り組みの総括が、方針に照らしてなされるべきだろう。しかし、学校においては、こういうことは殆ど行われない。ゼロとは言わないが、限りなくゼロに近いのが実情ではないだろうか。こうなると、教育は、その場しのぎの思いつきでなされることになる。当然主観的に過ぎるし、過ちも多くなる。学校から教育力が欠如するのは、このような現実があるからだ。生徒数が減って、一人の生徒に割く時間の余裕が増えているはずなのに、いっこうに学校の教育の成果が上がらないのは、教師がなすべき基本的なことをなしていないからだ。そして、教育にとって、基本的で本質的なことから教師たちの目を逸らしているのが、学校管理職者たちであり、またその上層部の教育委員会だからである。この構造的腐敗を何とかしなければ、日本の教育の未来は開けない。ひとりひとりの教師の誠実さなどは、闇の中に葬られる。今後教育で飯を食おうという若き人たちは、少なくとも、このようなことに鋭敏であれ!

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃