ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○忘れてはならないこと。

2011-08-22 11:23:06 | 観想
○忘れてはならないこと。

オトナになるということは、そりゃあ、いろいろと難関苦難を乗り越えてきたわけで、べつに哲学者でなくとも、日常生活言語でその人なりの人生観を形成しているのが、長く生きた証左でもありますね。それは十分に評価に値することだろうと思います。人間、自分が生きてきた証がなければ、人生なんてかなりつまらないものに思えてしまいますし、自己否定モードに入ってしまいかねません。

僕が青年の頃ですから、まあ、大昔ですけれど、自己嫌悪なんていう言葉が流行りました。そもそも自己嫌悪なんて、よほど考えつめないと嫌悪する対象すら曖昧になるはずのものですが、当時の若者が惹起する自己嫌悪というのは、たぶんに自己嫌悪というポーズに過ぎないものだったと思います。それなりに小難しい本も読んでいたはずですが、内実の理解もそこそこに、自己嫌悪にむすびつきそうな言辞を紡ぎ合わせてはもの知り顔をつくっていたのではないでしょうか?付け加えて言うならば、全否定という言葉も流行りでした。でも、よく考えてみれば、全否定なんてそもそも論理矛盾ですね。自分の存在も含み込んだ世界を全否定するならば、自己嫌悪する自分すら否定することになりますから、当然のことですが、否定の否定は肯定。つまりは、自己否定=自己肯定というおかしなことになってしまいます。それでも、自己嫌悪と全否定という言葉はずいぶんと大きな顔をして、闊歩していたように思います。ひょっとすると世の中が動くかも知れないなあ、という根拠なき期待感を抱かせるほどには自由と反抗の気風に溢れていた時代でした。それでもこの程度の思想の次元なのですし、現代は、当のオトナが生きること、生活すること、そのものに絶望している時代なのです。若き人々に対して、夢がないとか、前向きでないなどと云うような独断はやらないに越したことはありません。少なくとも僕はそう思います。

人間は生きるために都合よく出来ているものですね。青年の頃に嫌と云うほど悩まされたはずの、世の中に対する畏れ、自信喪失、欠落感、訳の分からないほどの情けなさなどは、オトナになるにつれて面の皮が厚くなるのか、忘却の彼方に投げ捨てられるのです。誰もが、十分な確信もなく世の中に飛び出して、それこそヒヤヒヤの毎日を送っているうちに、社会人の顔つきになってきます。飯が食えるようになるとなおさら生きることに対する確証なき自信のようなものが湧いてきて、僕/私ってなんとかなるじゃあないの、という心境に達するものです。まあ、人間って、こんなものでしょうけれど、オトナとしてのふるまい方の良し悪しが問われるのは、次のようなときなのではないでしょうか。つまり、これから世の中に出ようとする人たち、あるいは世の中に飛び出して間もなき人たちに対してものを言うとき、自分の若きときの、寄る辺なき心境に対して自覚的であり得るか否か、ですね。ここでオトナの値打ちが決まります。かなりええ歳になって、酒でも入ると、最近の若い奴らは!なんていう言葉が飛び交います。もう、こうなるといけません。自分たちこそ、年上のオトナたちからの同じ言辞に対して、なにクソ!と思ったはずです。それが世界に対する反抗の論理を構築する大いなるエネルギーになったはずなのです。年功序列や終身雇用制度に守られた時期がよかったのか、よろしくなかったのか?雇用形態としては、現在のような切り捨て御免というリストラの嵐が吹き荒れるよりは、優れたものだったと思います。しかし、精神性という側面から捉え返してみると、問題は山積みです。ある程度労働者としての制度保障がなければ、人間の心は荒んでいくばかりです。西欧先進国、とりわけアメリカ頼みだった日本経済は、アメリカ経済の凋落とともに、アメリカのように、経営者の責任は放置しておいて、経営不振ともなれば、有無を言わせぬ労働者の首切りです。教育費のバカ高さもアメリカのものまねです。福祉の切り捨てだってそうです。いつも日本はアメリカに右へ倣え、ですから、とりわけ、昨今の青年諸氏の未来像はとても暗いように感じます。そもそも過去と現代とでは比較する土台が違い過ぎます。

さて、僕たちはオトナとしてどのように若き人たちに接していきましょうか?ということに行き着くはずなんだけれど、まずは、前記したように、自己の裡なる精神の鋭角的な思想性が摩耗しているのに自覚的にならねばなりません。それがオトナであることの前提ではないでしょうか。最近の若者たちは本を読まなくなった。ナニナニをしなくなったなんて、言わぬがハナです。文化的な様相なんて時代によって激変します。若者たちの精神性を無目的に認める必要なんてありませんが、知りもしないで難癖をつけることだけは差し控えたいものです。これがオトナとしての作法です。作法という言葉は大嫌いだけれど、ここはやはり敢えてこの言葉を使っておきたい、と思います。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃