○気づきその7
不幸な病にでもおかされなければ、62歳という年齢は、現代ではまだ若い、という評価で済まされる社会通念ではなかろうか?
とはいえ、自身の感性から率直に言うと、長く生き過ぎた、と正直思う。私生活上、仕事上、あまりに失敗多き人生ゆえに、なにをどのように言い繕っても、生き恥を晒している、という想いから自由にはなれないのである。生きた時代が違えば、何か死するに値する理由を見つけ出して、切腹、すでにこの歳にして、この世にはいないのだろう。こんなことをつらつらと考えていて、三人の鋭角的な思想の持ち主のことを想起することになった。吉本隆明、小田実、三島由紀夫のこと。3人の簡単な印象を書けば、吉本は、尊敬に値する思想家だが、なぜか、何度読んでも彼の思想のコアーが掴めないお人。大胆に現代文明のありように切り込んで来てもいたが、その度に値打ちを落としていた、と感じる御仁である。ずっと昔、娘の吉本ばななも洟垂れ娘だっただろう頃に、湘南の海で海水浴中に溺れて死にかけたときは、おい、もうちとましな死に方をしてくれよ、という、屈折した想いで彼の無事を願った。さて、小田実。この人は、ずっと、自分にはまるで勝負にもならない人格を、そして思想の強靭さを鍛えに鍛え抜いた、あくまで人間的なんだけれど、たぶん、人間を超えた思索、実践両面からみて比類なき高潔な人。市民運動にはまるで興味すらソソラレないにしても、僕の裡では、小田の評価は、そういうことになる。聖路加病院にガンで入院し、亡くなるまでのドキュメンタリーを観たが、これが思想を紡ぐ人の最期の姿ではないか!と嘆息させられもした。さて、最後に僕の大嫌いな三島由紀夫。文学の達人。頭脳明晰。しかし、幼児的思想から一歩も抜け出すことの出来なかった甘ちゃん。三島の美意識の実践とは、盾の会の創設と市谷駐屯所での珍事の結末たる切腹。この僕にして、もう少しマシな状況下での切腹を考え選んだらどうか?と思わせるようなアホらしい死。なにより、自分の美意識などのために、それも昭和の、あの時代に時代錯誤の切腹なんて、どれほど馬鹿げた行為だったのか、三島に分からなかったはずがないのに。分かった上で、敢えてピエロ的な死を死んでいったのだろうか?そうだとするなら、三島はピエロとしても三流どころの大道芸人だ。
さて、三島のような大道芸のような死に方は勘弁してもらうとして、頭の出来としては、お三人ともにすばらしいわけである。あくまで模範的な意味合いで、誰を念頭に置けば、これから先の、僕の、生き恥を晒しての生を生き抜くために、何ほどかの勇気を与えてくれるのか?と自問すれば、それは当然、小田実ということになる。少なくとも、小田の思想的強靭さを真似るという、卑怯な仕草なりとも密やかにやっていこうか、と思うのである。要するに、凡人にとって、優れた存在の模倣ほど意味深いものはない、ということだ。よいではないか!自分独自の何ものかなど、もともとないんだから。とりわけ凡庸な精神にとっては、その凡庸さをいっときにしろ粉飾してくれるものを探せばいいのである。自分なりに納得できる、それを。あまり背伸びをせず、あくまで少しばかりの自尊心を満たし得るものを発見できれば、人生、それほど棄てたものでもなかろうに。そう想うのである。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
不幸な病にでもおかされなければ、62歳という年齢は、現代ではまだ若い、という評価で済まされる社会通念ではなかろうか?
とはいえ、自身の感性から率直に言うと、長く生き過ぎた、と正直思う。私生活上、仕事上、あまりに失敗多き人生ゆえに、なにをどのように言い繕っても、生き恥を晒している、という想いから自由にはなれないのである。生きた時代が違えば、何か死するに値する理由を見つけ出して、切腹、すでにこの歳にして、この世にはいないのだろう。こんなことをつらつらと考えていて、三人の鋭角的な思想の持ち主のことを想起することになった。吉本隆明、小田実、三島由紀夫のこと。3人の簡単な印象を書けば、吉本は、尊敬に値する思想家だが、なぜか、何度読んでも彼の思想のコアーが掴めないお人。大胆に現代文明のありように切り込んで来てもいたが、その度に値打ちを落としていた、と感じる御仁である。ずっと昔、娘の吉本ばななも洟垂れ娘だっただろう頃に、湘南の海で海水浴中に溺れて死にかけたときは、おい、もうちとましな死に方をしてくれよ、という、屈折した想いで彼の無事を願った。さて、小田実。この人は、ずっと、自分にはまるで勝負にもならない人格を、そして思想の強靭さを鍛えに鍛え抜いた、あくまで人間的なんだけれど、たぶん、人間を超えた思索、実践両面からみて比類なき高潔な人。市民運動にはまるで興味すらソソラレないにしても、僕の裡では、小田の評価は、そういうことになる。聖路加病院にガンで入院し、亡くなるまでのドキュメンタリーを観たが、これが思想を紡ぐ人の最期の姿ではないか!と嘆息させられもした。さて、最後に僕の大嫌いな三島由紀夫。文学の達人。頭脳明晰。しかし、幼児的思想から一歩も抜け出すことの出来なかった甘ちゃん。三島の美意識の実践とは、盾の会の創設と市谷駐屯所での珍事の結末たる切腹。この僕にして、もう少しマシな状況下での切腹を考え選んだらどうか?と思わせるようなアホらしい死。なにより、自分の美意識などのために、それも昭和の、あの時代に時代錯誤の切腹なんて、どれほど馬鹿げた行為だったのか、三島に分からなかったはずがないのに。分かった上で、敢えてピエロ的な死を死んでいったのだろうか?そうだとするなら、三島はピエロとしても三流どころの大道芸人だ。
さて、三島のような大道芸のような死に方は勘弁してもらうとして、頭の出来としては、お三人ともにすばらしいわけである。あくまで模範的な意味合いで、誰を念頭に置けば、これから先の、僕の、生き恥を晒しての生を生き抜くために、何ほどかの勇気を与えてくれるのか?と自問すれば、それは当然、小田実ということになる。少なくとも、小田の思想的強靭さを真似るという、卑怯な仕草なりとも密やかにやっていこうか、と思うのである。要するに、凡人にとって、優れた存在の模倣ほど意味深いものはない、ということだ。よいではないか!自分独自の何ものかなど、もともとないんだから。とりわけ凡庸な精神にとっては、その凡庸さをいっときにしろ粉飾してくれるものを探せばいいのである。自分なりに納得できる、それを。あまり背伸びをせず、あくまで少しばかりの自尊心を満たし得るものを発見できれば、人生、それほど棄てたものでもなかろうに。そう想うのである。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃