○あの頃にちょっとタイム・スリップして書き置きたきこと。
僕が小学校時代を過ごしたのは、昭和35.6年から41.2年までのこと。間違いなく50年以上も前の、人間的時間の流れから云うと、まあ、大昔だ。頭の中を掠めて通り過ぎることを、書きとめる。特別な意図はないが、何となく心の中に残留している記憶の、当時の時代的背景としては当然の、あるいは、時代的な流れの中に置いてみると、どうもそぐわないこととして気にかかっていること。そんなことを少し。
僕が育った神戸は、決してコジャレタ雰囲気のそれではない。光の当たるところがあれば、必ず闇があるような、そうたぶん、神戸という街をみなさんが想起する光の部分とは裏腹な、陰に当たるような要素満載のところだ。淡路島から神戸に流れ着いた場所は、神戸の長田区、五番町2丁目。みなさんが、地区という認識で捉えている、外から見るとかなりディープな場所。そこで遊んでくれた尊敬するニイチャンは、ブラックアメリカンの兵隊さんと、日本人女性、当時オンリーと呼ばれていた生業の末に生を受けた人。見た目はまったくのブラックアメリカンそのままの、オトコマエの、日本語しか喋れない、小学校の番長さん。よく可愛がってくれた、な。ニイチャンが短縮されて、ニヤン。僕の喧嘩の技術は、ニヤンと、ボンボン上がりだが、腕っぴしはやたらと強かった若き日のオヤジから伝授されたもの。文字どおりのワルにもなりきれない小学生相手だったから、前に敵なし、だった。当時住んでいたのは、入口が埃だらけの前面ガラス張り、廊下はやけに広くて、埃だらけで、痛んで穴だらけの、分厚い絨毯が敷き詰められ、部屋数がやたらと多いアパート。部屋の中の仕切りの壁には、おかしなかたちの切通し。あれは、いまにして思えば、アパートに転用された、もとは、あやしげな宿だろうな。忘れもしない。アパートの名前は紅桜荘(べにざくらそう)。名前だけは、戦後の混乱期のまま残ったのかしらん。どういうわけか、当時珍しかった家庭用テレビが隣の一軒家のニヤンのところにあったから、力道山のプロレスは、ニヤンのところで。長田区の五番町は、お好み焼きの発祥の地だけあって、大袈裟ではなくて、10歩ほど歩けばお好み焼屋さんに突きあたる。子どもの小遣いでもお好み焼きは食える。それほど安くてうまいものがまわりにはあったね、貧しくても。そういう意味で、とてもいい時代。貧乏でも何とか生きていける時代。とくに僕がいたところは、認めてくれさえすれば、情に厚い人ばかり。NPO法人なんてなんのその、助け合い精神の権化みたいなところだ。人との距離感がとりづらくなったのは、自他の区別をつけることが他人行儀として嫌悪された、こういう少年期の環境が影響しているのかも。
そこから引っ越ししたところが、オフクロの実家の近くの二階建てのアパートの一室。4畳半一間。極小の台所に共同トイレ。歩くとミシミシ鳴る板張りの古びた廊下。お隣の一軒家が皮なめし加工が家業のおうちだったから、かなり異様な臭いが立ち込めている。真向かえは、当時繁栄していた三菱造船所の広大な敷地。そこのドデカイ時計台が、うちの時計でもあった。神戸で、運南地区(運河の南の地区という意味だね)といったら、海抜ゼロメートル地帯の、台風が来ると堤防が決壊して、目の前の道路が川の濁流に変貌するようなところ。小学校は、一階全部が浸水して、台風明けは長期間臨時休校で、生徒も親もドロの後始末に出向く。ついでに小学校の話を少し。これがおかしいなあ、と思えるところなんだ。
教育熱なんてまるでない地域だったのに、そして、そこに居たのは、昭和41.2年頃までだから、日本は所謂戦後民主主義の空気の真っ只中。なのにそこの小学校の教育は、時代の空気とは無関係に存在していたように思う。音楽の先生は素敵な女性教諭だったし、よく可愛がってもくれたが、僕の名前をなぜか、いつもナガオくんと間違って呼んだ。入念に指導された歌の中に、「君が代」があって、壇上で一人一人独唱させられた。大阪市長の橋下さんが聞けば大喜びしそうなほど、その頃の僕たちは「君が代」をうまく、声高らかに歌えたんだ。
いくら優れた女の子でも、学級委員長にはなれない。女の子はあくまで副委員長さんだ。女性差別もいいとこなんだけど、当時はそれがあたりまえだと思っていた。それに、算数と国語は、分厚い問題集を買わされて、能力別に5段階に分けられて、月曜日かの放課後2時間は絞られる。学期ごとの成績によって、無情にもクラスを換えられる。特に能力別の特別授業のクラス分けの時期は、心がざわついた記憶があるから、能力別クラスは学校教育とはそぐわないのではなかろうか?よく出来る人はともかくとしてね。たぶん、いまとは逆の、いろんな外的圧力がかかっていたはずだから、先生たちはしんどかっただろうね。しかし、なんであの時代に、そうまで時代と逆行しなければならなかったのだろうか?謎である。
いまは、造船もダメ。あの地域は人口減少の只中にいるはずだ。小学校はそのままみたいだけれど、中学校は統廃合されて母校はいまはない。それに、小学生前まで住んだ五番町2丁目近辺は、阪神淡路大震災で、街そのものが変貌してしまっているのだろう。長い間訪れてもいない。行ってみたいが、その気力がない。歳をとるとは、そういうものかも知れない。自分の過去が空想の中に埋もれていくような、そんな気分だ。かと言って、未来も明確なイメージを結ぶこともない。なんてぇ、ことだ、生きるってのは。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
僕が小学校時代を過ごしたのは、昭和35.6年から41.2年までのこと。間違いなく50年以上も前の、人間的時間の流れから云うと、まあ、大昔だ。頭の中を掠めて通り過ぎることを、書きとめる。特別な意図はないが、何となく心の中に残留している記憶の、当時の時代的背景としては当然の、あるいは、時代的な流れの中に置いてみると、どうもそぐわないこととして気にかかっていること。そんなことを少し。
僕が育った神戸は、決してコジャレタ雰囲気のそれではない。光の当たるところがあれば、必ず闇があるような、そうたぶん、神戸という街をみなさんが想起する光の部分とは裏腹な、陰に当たるような要素満載のところだ。淡路島から神戸に流れ着いた場所は、神戸の長田区、五番町2丁目。みなさんが、地区という認識で捉えている、外から見るとかなりディープな場所。そこで遊んでくれた尊敬するニイチャンは、ブラックアメリカンの兵隊さんと、日本人女性、当時オンリーと呼ばれていた生業の末に生を受けた人。見た目はまったくのブラックアメリカンそのままの、オトコマエの、日本語しか喋れない、小学校の番長さん。よく可愛がってくれた、な。ニイチャンが短縮されて、ニヤン。僕の喧嘩の技術は、ニヤンと、ボンボン上がりだが、腕っぴしはやたらと強かった若き日のオヤジから伝授されたもの。文字どおりのワルにもなりきれない小学生相手だったから、前に敵なし、だった。当時住んでいたのは、入口が埃だらけの前面ガラス張り、廊下はやけに広くて、埃だらけで、痛んで穴だらけの、分厚い絨毯が敷き詰められ、部屋数がやたらと多いアパート。部屋の中の仕切りの壁には、おかしなかたちの切通し。あれは、いまにして思えば、アパートに転用された、もとは、あやしげな宿だろうな。忘れもしない。アパートの名前は紅桜荘(べにざくらそう)。名前だけは、戦後の混乱期のまま残ったのかしらん。どういうわけか、当時珍しかった家庭用テレビが隣の一軒家のニヤンのところにあったから、力道山のプロレスは、ニヤンのところで。長田区の五番町は、お好み焼きの発祥の地だけあって、大袈裟ではなくて、10歩ほど歩けばお好み焼屋さんに突きあたる。子どもの小遣いでもお好み焼きは食える。それほど安くてうまいものがまわりにはあったね、貧しくても。そういう意味で、とてもいい時代。貧乏でも何とか生きていける時代。とくに僕がいたところは、認めてくれさえすれば、情に厚い人ばかり。NPO法人なんてなんのその、助け合い精神の権化みたいなところだ。人との距離感がとりづらくなったのは、自他の区別をつけることが他人行儀として嫌悪された、こういう少年期の環境が影響しているのかも。
そこから引っ越ししたところが、オフクロの実家の近くの二階建てのアパートの一室。4畳半一間。極小の台所に共同トイレ。歩くとミシミシ鳴る板張りの古びた廊下。お隣の一軒家が皮なめし加工が家業のおうちだったから、かなり異様な臭いが立ち込めている。真向かえは、当時繁栄していた三菱造船所の広大な敷地。そこのドデカイ時計台が、うちの時計でもあった。神戸で、運南地区(運河の南の地区という意味だね)といったら、海抜ゼロメートル地帯の、台風が来ると堤防が決壊して、目の前の道路が川の濁流に変貌するようなところ。小学校は、一階全部が浸水して、台風明けは長期間臨時休校で、生徒も親もドロの後始末に出向く。ついでに小学校の話を少し。これがおかしいなあ、と思えるところなんだ。
教育熱なんてまるでない地域だったのに、そして、そこに居たのは、昭和41.2年頃までだから、日本は所謂戦後民主主義の空気の真っ只中。なのにそこの小学校の教育は、時代の空気とは無関係に存在していたように思う。音楽の先生は素敵な女性教諭だったし、よく可愛がってもくれたが、僕の名前をなぜか、いつもナガオくんと間違って呼んだ。入念に指導された歌の中に、「君が代」があって、壇上で一人一人独唱させられた。大阪市長の橋下さんが聞けば大喜びしそうなほど、その頃の僕たちは「君が代」をうまく、声高らかに歌えたんだ。
いくら優れた女の子でも、学級委員長にはなれない。女の子はあくまで副委員長さんだ。女性差別もいいとこなんだけど、当時はそれがあたりまえだと思っていた。それに、算数と国語は、分厚い問題集を買わされて、能力別に5段階に分けられて、月曜日かの放課後2時間は絞られる。学期ごとの成績によって、無情にもクラスを換えられる。特に能力別の特別授業のクラス分けの時期は、心がざわついた記憶があるから、能力別クラスは学校教育とはそぐわないのではなかろうか?よく出来る人はともかくとしてね。たぶん、いまとは逆の、いろんな外的圧力がかかっていたはずだから、先生たちはしんどかっただろうね。しかし、なんであの時代に、そうまで時代と逆行しなければならなかったのだろうか?謎である。
いまは、造船もダメ。あの地域は人口減少の只中にいるはずだ。小学校はそのままみたいだけれど、中学校は統廃合されて母校はいまはない。それに、小学生前まで住んだ五番町2丁目近辺は、阪神淡路大震災で、街そのものが変貌してしまっているのだろう。長い間訪れてもいない。行ってみたいが、その気力がない。歳をとるとは、そういうものかも知れない。自分の過去が空想の中に埋もれていくような、そんな気分だ。かと言って、未来も明確なイメージを結ぶこともない。なんてぇ、ことだ、生きるってのは。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃