○気づきその8
自分はかなり強い精神性を持っている人間だと思っていた。次元の低いことなどでは、心乱されてなるものか、という強い覚悟のある人間のはずだった。しかし、冷静にこれまでの自分の人生を振り返ってみると、どうして、なんともか弱き精神の持ち主、まず包容力などという概念の理解出来ぬ小さき人間だった、などと今さらながらの気づきである。強靭さを装った脆弱な精神ほど始末に悪いものはないのである。過去の自己の総体は、否定しようもなく、脆弱そのものだった、と感じるのである。お恥ずかしい限り。
脆弱な人間は、言うまでもなく、敗北を怖れる。どのような意味においても。敗北によって、現れ出た、折れた自分の姿に耐えられないのである。こういう敗北を避け得る最も有効な手段とは何か?簡単である。虚勢を張ること。根拠なき強靭さを装うこと。しかし、これら一切の無意味・無価値な抗いこそが、人を不幸にする元凶である。いまなら分かる。そして、そのような不幸の只中に居た自分の目から見た世界は、生の暗部でしかなかったのである。いかなる意味においても明るい、希望に満ちた、軽やかな未来像などというものが感受出来ないほどに、心が腐れ果てている。これは、人生における悲劇であり、また同時に、喜劇でもある。
僕にとっての、生への抗い、反抗の論理の定義の再構築。これが最優先課題である。なぜか?勿論、生き抜くために。中途半端な虚勢は、脆弱さゆえに、関わるべき価値なきものにまで時として思い入れ、当然の結末だが、裏切られもする。それで済ませられないのが、生半可な虚勢の哀しき性であって、まるで、安っぽいテレビドラマのごとき復讐劇にありがちな、憎悪の念がムクムクと自分の脳髄は云うに及ばず、体内を駆け巡るがごとく、存在と憎悪とが同次元のものになり果てる。卑しき精神性である。反吐が出る。
人は生きている限り、否応なく醜悪なる事象、唾棄したくなるほどの人間性に遭遇する。少なくともそのような可能性は否定出来ない。不幸にして、このようなものに直面したら、根拠なき虚勢による強靭さで対抗などするべきではない。そうであれば、自己と唾棄すべきものたちとは、同一次元に留め置かれてしまう。そんなことは避けるに越したことはない。日常生活上、いっときの損失を被るかも知れないが、アホウが欲しがるものはくれてやれ!つまらぬこだわりから自由になれば、心は全方向に解放されるのである。幸福になれないはずがないではないか!つまらぬスピリチャルな世界に嵌ることなく、あくまでリアルな物の見方に鋭敏になって、もしそこに無価値なものがあるなら、それをさっさと棄て、新しき、価値あるものを採り入れ、自己の精神性の再構築にとりかかるのである。これの繰り返しが、人生である。生きる意味である。それ以外の全ての要素は、生のフリンジ。フリンジには振り回される価値はなし。さて、みなさん、明るいいまを、明日を、未来を生きましょう!
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
自分はかなり強い精神性を持っている人間だと思っていた。次元の低いことなどでは、心乱されてなるものか、という強い覚悟のある人間のはずだった。しかし、冷静にこれまでの自分の人生を振り返ってみると、どうして、なんともか弱き精神の持ち主、まず包容力などという概念の理解出来ぬ小さき人間だった、などと今さらながらの気づきである。強靭さを装った脆弱な精神ほど始末に悪いものはないのである。過去の自己の総体は、否定しようもなく、脆弱そのものだった、と感じるのである。お恥ずかしい限り。
脆弱な人間は、言うまでもなく、敗北を怖れる。どのような意味においても。敗北によって、現れ出た、折れた自分の姿に耐えられないのである。こういう敗北を避け得る最も有効な手段とは何か?簡単である。虚勢を張ること。根拠なき強靭さを装うこと。しかし、これら一切の無意味・無価値な抗いこそが、人を不幸にする元凶である。いまなら分かる。そして、そのような不幸の只中に居た自分の目から見た世界は、生の暗部でしかなかったのである。いかなる意味においても明るい、希望に満ちた、軽やかな未来像などというものが感受出来ないほどに、心が腐れ果てている。これは、人生における悲劇であり、また同時に、喜劇でもある。
僕にとっての、生への抗い、反抗の論理の定義の再構築。これが最優先課題である。なぜか?勿論、生き抜くために。中途半端な虚勢は、脆弱さゆえに、関わるべき価値なきものにまで時として思い入れ、当然の結末だが、裏切られもする。それで済ませられないのが、生半可な虚勢の哀しき性であって、まるで、安っぽいテレビドラマのごとき復讐劇にありがちな、憎悪の念がムクムクと自分の脳髄は云うに及ばず、体内を駆け巡るがごとく、存在と憎悪とが同次元のものになり果てる。卑しき精神性である。反吐が出る。
人は生きている限り、否応なく醜悪なる事象、唾棄したくなるほどの人間性に遭遇する。少なくともそのような可能性は否定出来ない。不幸にして、このようなものに直面したら、根拠なき虚勢による強靭さで対抗などするべきではない。そうであれば、自己と唾棄すべきものたちとは、同一次元に留め置かれてしまう。そんなことは避けるに越したことはない。日常生活上、いっときの損失を被るかも知れないが、アホウが欲しがるものはくれてやれ!つまらぬこだわりから自由になれば、心は全方向に解放されるのである。幸福になれないはずがないではないか!つまらぬスピリチャルな世界に嵌ることなく、あくまでリアルな物の見方に鋭敏になって、もしそこに無価値なものがあるなら、それをさっさと棄て、新しき、価値あるものを採り入れ、自己の精神性の再構築にとりかかるのである。これの繰り返しが、人生である。生きる意味である。それ以外の全ての要素は、生のフリンジ。フリンジには振り回される価値はなし。さて、みなさん、明るいいまを、明日を、未来を生きましょう!
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃