ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○気づきその9

2012-04-07 01:28:45 | 観想
○気づきその9

人間関係とはそもそもある意味、幻想的な要素がなくもないにしても、信頼関係の上に築かれているという了解事項で、人は何とか精神の平衡感覚を保っているものだろう。僕はこの場で何度も、人の言語回路とは、他者に対する信頼関係がなければならないし、そのためには自己の心は全方位に開かれているべきなのである、という主旨で人間の関係性について書いてきた、と思う。

しかし、実はそういうことではないな、ということに昨今つくづく思い至る。同じ言語、同じ概念を語り合っていても、まるで通じ合えないこともある。残念だけれども、どうもそれがリアルな人間の関係性の捉え方であるようだ。人が、そして僕自身が幸福になろうとするなら、この通じ合えなさ、という生のリアリティを感受するべきなのだ。これまでの僕は、本来のリアリティに、自分が勝手に創った幻像の関係性のフィルターをかけて、叶わぬ幻想をずっと追い求めてきたのである。他者との深き関係性を求め、あるときは他者の精神性に踏み込み過ぎて、忌避されるなどということは、起こり得るべくして起こったものと、いまはわかる。これからは、傍にいる心優しき人たちには、誠心誠意まともに向き合っていこう。しかし、去る者は追わず、だ。たとえ、僕から去ることによって、当人が今後被るであろう不幸を予測できたとしても、それはすでに僕の立ち入るべき領域ではないし、そう思うこと自体が傲岸な思想の現われだろう。ジャンポール・ベルモントの「勝手にしやがれ!」という大ヒットしたずっと昔の映画の、本質的な意味が今頃分かった気がするのである。果たして、人間の気づきとは、こういうものなのだろうか?

もう一つ、ねじ伏せるべき要素がある。自分の中にいまだに在る野心、かつて、クラーク博士が、学生たちにむかって言い放った、Boys, be ambitious! という意味における野心も、もはや、この歳にしては、野心をいかになだめるかという心のベクトルを据え直さないといけない、と心底思う。自分を幸福にするためのファクターなんて、整理し尽してしまえば、まあ、こんなところなのではなかろうか?野心は、時として、世界を変革するエネルギーを紡ぎ得る。が、果たしてそれが多くの人々の幸福にとって、普遍的な価値観として存続出来るのだろうか?自分のまわりを、世界の動きを先入観なしに眺めてみればよい。野心とは、あくまで人の社会をいっとき爆発的に変革するためのエネルギーではあるけれども、どこかの時点で、野心は昇華され、他者を含み込むような優しさに変化するべきものだ。暴走した野心が、独裁を生み、独裁とは、ごく、ごく、一部の人間たちの利益にしか貢献しない代物である。僕たちはいまこそ、優しさを具現化すべき時代性の中に生きているのである。適度な距離感は認めようではないか。もし、何がしかの齟齬が生じて去り行く人がいれば、それはそれ。去ればよろしい。なすべきことがたくさんある。既成のものの考え方、それに引きずられた人との関係性などは、積極的に唾棄する。それでいいではないか。言葉の強さで判断しないでほしい。僕の求めているのは、自他の優しさだ。これから生きていくのに、最も意味ある価値意識である。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃