○気づきその10
猛省すべきことー自分が何ごとにおいても力業を根拠にした発想と行動を好むこと。こういう心境でいると、世の中あまりにも不条理なこと多きゆえに、妄想の中においては、常に革命劇の果て、体制としての世界を転覆させてもいる。確信犯的な暴力主義者であり続けて、この歳になった。が、いまは、この種の妄想がいかに自分自身を腐らせ、それだけでなく、人間関係を必要以上に狭めることになり、世の中の出来事に対して、概ね皮相的になり、結果的に世界と切り離されたところで自分が孤立していることに気づく。よいことなど一つたりともない。
政治的な事柄に対して強引、かつオ―ケストレイテッド(orchestrated)になり得るが、その実、実質的な現れとしては、世に云う、政治的無関心層の人々と何ら変わるところがない。これを世界に対する絶望の果て、などと云う格好のつけ方で逃げるつもりはない。要するにダメな人間になり果てているのである。僕がアルベール・カミュの「シ―シュポスの神話」を座右の書としているのは、自己弁護というよりは、自己叱責のための、思想的道具として位置づけているからである。あるいは、硬質で、折れることなき小田実を尊敬の対象にしているのも、彼が市民などというヘナちょこ連中(失礼、これは表現上の分かりやすさゆえにもちいた言辞です。市民運動家のみなさん、お許しあれ!)相手に、生涯市民運動に根ざした思想家であり続けた彼の粘り強さに憧れるからである。直截的な権力を持ち得ない立場を敢えて選びとった人ゆえに、政治的勝利などとは殆ど無縁の人だったと思うし、また、そのことがますます小田の思想を強靭にしていったことを考えると、もう降参するしかない。
ネルソン・マンデラもアウンサン・スゥ・チーも金大中も、それぞれが旧体制に酷薄な弾圧を受けても立ちあがり、自分の地位を確立したという意味で、尊敬に値する政治家たちだが、しかし、彼らの天才的な才能と気力は、反権力、権力奪取という執念があってこそ花開いたではないか。しかし、小田実の思想、実践力は、まさにシ―シュポスのごとくに、絶えまない敗北の中から醸成された強靭さだ。爪の垢を煎じて飲むとしたら、やはり、小田のような生き方、死に方からだ。無論、僕は市民運動などまったく信じてはいないから、あくまで表層的な真似ごとであって、爪の垢も空中に飛散してしまった後に、結局誰のものとも知れぬそれを拾い集めるがごとし、だろう。まあ、僕の生き方など、これくらいの代物でしかない。決して自嘲的に開き直っているのではない。むしろ、これが、僕という人間の等身大の姿ではないか、と昨今思うのである。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
猛省すべきことー自分が何ごとにおいても力業を根拠にした発想と行動を好むこと。こういう心境でいると、世の中あまりにも不条理なこと多きゆえに、妄想の中においては、常に革命劇の果て、体制としての世界を転覆させてもいる。確信犯的な暴力主義者であり続けて、この歳になった。が、いまは、この種の妄想がいかに自分自身を腐らせ、それだけでなく、人間関係を必要以上に狭めることになり、世の中の出来事に対して、概ね皮相的になり、結果的に世界と切り離されたところで自分が孤立していることに気づく。よいことなど一つたりともない。
政治的な事柄に対して強引、かつオ―ケストレイテッド(orchestrated)になり得るが、その実、実質的な現れとしては、世に云う、政治的無関心層の人々と何ら変わるところがない。これを世界に対する絶望の果て、などと云う格好のつけ方で逃げるつもりはない。要するにダメな人間になり果てているのである。僕がアルベール・カミュの「シ―シュポスの神話」を座右の書としているのは、自己弁護というよりは、自己叱責のための、思想的道具として位置づけているからである。あるいは、硬質で、折れることなき小田実を尊敬の対象にしているのも、彼が市民などというヘナちょこ連中(失礼、これは表現上の分かりやすさゆえにもちいた言辞です。市民運動家のみなさん、お許しあれ!)相手に、生涯市民運動に根ざした思想家であり続けた彼の粘り強さに憧れるからである。直截的な権力を持ち得ない立場を敢えて選びとった人ゆえに、政治的勝利などとは殆ど無縁の人だったと思うし、また、そのことがますます小田の思想を強靭にしていったことを考えると、もう降参するしかない。
ネルソン・マンデラもアウンサン・スゥ・チーも金大中も、それぞれが旧体制に酷薄な弾圧を受けても立ちあがり、自分の地位を確立したという意味で、尊敬に値する政治家たちだが、しかし、彼らの天才的な才能と気力は、反権力、権力奪取という執念があってこそ花開いたではないか。しかし、小田実の思想、実践力は、まさにシ―シュポスのごとくに、絶えまない敗北の中から醸成された強靭さだ。爪の垢を煎じて飲むとしたら、やはり、小田のような生き方、死に方からだ。無論、僕は市民運動などまったく信じてはいないから、あくまで表層的な真似ごとであって、爪の垢も空中に飛散してしまった後に、結局誰のものとも知れぬそれを拾い集めるがごとし、だろう。まあ、僕の生き方など、これくらいの代物でしかない。決して自嘲的に開き直っているのではない。むしろ、これが、僕という人間の等身大の姿ではないか、と昨今思うのである。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃