○哀れな末路なんて、よく言うけれどね。
哀れという言葉は、人の哀れを誘うという表現があるくらいだから、たとえば、哀れな末路などと言うと、そこには、死にゆく人、あるいは死した人に対する一般的・常識的な価値観を介した、どちらかと云えば、負の評価になっているのだろう、と思う。
しかし、他方で日本人には、おそらくはかなり少数の、知識層に属する人々にだけ理解できる価値意識としての「もののあはれ」という言葉もある。本居宣長が、「もののあはれ」と語るとき、それは、「もの」すなわち対象客観と、「あはれ」、すなわち感情主観の一致するところに生じる調和的情趣の世界。優美・繊細・沈静・観照的の理念(広辞苑から)を意味することになる。
そうであれば、日常語としての「哀れ」は、時代の荒波の中で変質してきたにしても、そこには、人生の敗残者の最期に対する同情と蔑視の入り混じった感情が支配的だと考えて差し支えないだろう。そして、その言葉に込められた、哀れと称する側にいる自分もまた敗残者ともなり、哀れな末路を迎える可能性があるとの認識ー「もののあわれ」が時間とともに最小限に変節した生に対する危惧感ーが言葉の底に埋もれていると、僕は思うのである。だからこそ、哀れという概念は、幽玄の美的な観念論から、日常的次元における心の浮き沈みへと転落したと考えるのが妥当な解釈ではないのだろうか?
さて、上記のような考え方を自分なりに解釈し、「もののあわれ」から現代的な哀れに変質してしまった、たぶん、変節どおりに哀れな最期を迎えるだろう僕自身の、残りの生に対する構えとはいったい何か?おそらく、それは観念的に湧き出してくる死のイメージを極力排除すべきなのではないか、と推察する。僕は自分の死を死するがままに死ねばいいのであって、ここに如何なる抗いの念を差し挟む余地はないものと思う。世が不条理だとも不合理だとも言い続ける。が、不条理・不合理の極みとも言うべき、唐突な己れの死は、不条理そのものを受け入れる、最期の場面だろう。いいだろう。そういう覚悟でいまひと息、生き抜く。自死はしない。それは、不条理性を、たぶんこの世界に生きるということについてまわる、死の原理を避けるのはまっぴらだ、と僕は認識し始めたからだ。圧倒的な思想的敗北。これをわが身に受け止めなくてどうするというの?僕はがんばりますよ。それがどういうものか、舌舐めずりして出迎えますよ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
哀れという言葉は、人の哀れを誘うという表現があるくらいだから、たとえば、哀れな末路などと言うと、そこには、死にゆく人、あるいは死した人に対する一般的・常識的な価値観を介した、どちらかと云えば、負の評価になっているのだろう、と思う。
しかし、他方で日本人には、おそらくはかなり少数の、知識層に属する人々にだけ理解できる価値意識としての「もののあはれ」という言葉もある。本居宣長が、「もののあはれ」と語るとき、それは、「もの」すなわち対象客観と、「あはれ」、すなわち感情主観の一致するところに生じる調和的情趣の世界。優美・繊細・沈静・観照的の理念(広辞苑から)を意味することになる。
そうであれば、日常語としての「哀れ」は、時代の荒波の中で変質してきたにしても、そこには、人生の敗残者の最期に対する同情と蔑視の入り混じった感情が支配的だと考えて差し支えないだろう。そして、その言葉に込められた、哀れと称する側にいる自分もまた敗残者ともなり、哀れな末路を迎える可能性があるとの認識ー「もののあわれ」が時間とともに最小限に変節した生に対する危惧感ーが言葉の底に埋もれていると、僕は思うのである。だからこそ、哀れという概念は、幽玄の美的な観念論から、日常的次元における心の浮き沈みへと転落したと考えるのが妥当な解釈ではないのだろうか?
さて、上記のような考え方を自分なりに解釈し、「もののあわれ」から現代的な哀れに変質してしまった、たぶん、変節どおりに哀れな最期を迎えるだろう僕自身の、残りの生に対する構えとはいったい何か?おそらく、それは観念的に湧き出してくる死のイメージを極力排除すべきなのではないか、と推察する。僕は自分の死を死するがままに死ねばいいのであって、ここに如何なる抗いの念を差し挟む余地はないものと思う。世が不条理だとも不合理だとも言い続ける。が、不条理・不合理の極みとも言うべき、唐突な己れの死は、不条理そのものを受け入れる、最期の場面だろう。いいだろう。そういう覚悟でいまひと息、生き抜く。自死はしない。それは、不条理性を、たぶんこの世界に生きるということについてまわる、死の原理を避けるのはまっぴらだ、と僕は認識し始めたからだ。圧倒的な思想的敗北。これをわが身に受け止めなくてどうするというの?僕はがんばりますよ。それがどういうものか、舌舐めずりして出迎えますよ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃