○老いを言い訳にしないこと。これが目下の僕のテーマ。
人間の思考の入り口なんて、どこにも開いているもののようで、今日はジムワークから感得したことを少々。
怠惰と過食で、弛み切った肉体と、肉体が衰微すれば、当然精神の疲弊にも大いなる影響を与えるもので、今年の2月の、縮み上がるような寒さの中,怖々ジムの窓口へ。入会してから、ジムのマシーンやスタジオレッスンやバーベルやダンベルがずらりと並んだフリーウェイトゾーンを見学し、Tシャツの下の出っ張った下腹をさすりつつ、こりゃー、アカン、俺には無理や!と声にならぬ叫びをあげていたのである。試しにヤワいヨガのスタジオレッスンに参加したら、ドアをピシャリと締められた。45分間は出ることアイならん、ということらしい。パニック障害の人はどうするんじゃあ!と腹の中で毒づきつつ、パニック障害の人がこんな場所で、締め切りのスタジオでヨガの訓練なんてするはずないか、と自分が毒づいたことに毒づいている。情けなきことだ。7,8分で息が上がり、まわりの人々が悠々とやっていることについていけない。額からは、玉の汗が滴っている。無論僕だけが。10年間の怠惰な日々のツケがまわってきたわな、という嘆息が漏れる。それでもなんとかしのいで、さて、次の日からがホントの地獄のはじまりだった。
ええかっこしいが、僕の心情なので、出っ張った下腹をゆすりながら、フリーウェイトのコーナーに。隣のガタイのよろしいオニイサンの持っているのと同じ重量のダンベルに手をかけて、ウン!と力を込めたら、腰にきた。それゆえに恥ずかしいほどの軽いダンベル運動に切り替える。それでも、場をわきまえぬ僕は、超がつく初心者なのに、バーベルに挑む。手首と肩を痛めた。帰ったら、腕も上がらぬ状態で、朝目覚めたら、筋肉痛どころのさわぎではなくて、身体がそもそも動かないのである。立ち上がるのに、エイ!とかすかに残ったエネルギーをふりしぼって、ようやく立ち上がれる。そんな状態がほぼ3カ月続く。へこたれつつ、それでもジム通いは続く。
1カ月くらいするとまわりが見えて来る。高齢だろうが、僕よりも確実に若いに違いない人々のトレーニングスタイルには、ある特徴があるのに気づく。それは、僕から見ても明らかに分かる理由だ。彼らは殆どの場合、自らの限界値よりもずっと前のところで、つまりは、もっとずっと重い負荷をかけられるはずなのに、決してそうはしない。軽い重量のダンベルを振り回している。訓練の方法論もまったくのルーティーンになってしまっているのに、ルーティーンワークが安心材料のように、同じことを飽きもせずにやっているのである。これでは効果は現れない。彼らこそ僕の良き反面教師だった。
苦しいが、負荷を可能な限り上げていく。身体のどこかを痛めたら、その部位のまわりの筋力を上げて治していく。原初的だが、これが原点だろう、という確信を持ってやっていたら、まわりのガタイのいいオニイサンたちに、僕の存在が目に入りはじめたようで、適切な助言をくれる。ありがたいものである。僕のジムでの唯一のテーマは、自分の老いを言い訳にしないこと。これあるのみ。しかし、自分の体力と肉体に向き合うのに、これほどシンプルで確かな指標はないとも思う。屁理屈は有害だ。だから、僕のジム仲間は、みんな若いし、若い人たちが真摯に付き合ってもくれる。彼らの言葉はシンプルゆえに説得力がある。こういう言葉の力が必要なのだ、と思う。まともに向き合えば、財産となる言葉を得られるのである。
昨夜のトレーニングの締めの段階で、鍛え抜いた体躯を誇るある青年が僕に言った。彼は、いつも僕に対して、無茶をするな、と言い、理論的な方法論を説いてくれた青年だ。が、昨夜の彼の言。これだけ短期間に効果が出ているんだから、長野さんの踏んばりには驚くほかないね、だと。僕は心の底で彼に呟いた。いや、いや、踏んばってなんかいない。苦しくて仕方ないけど、僕は老いているから、という言い訳を封じ込めただけなんだよ、って。交わす言葉は多くはないが、ジムで鍛える仲間たちとの共有感覚は、自分の筋力の限界値を超える度に深まる。世の中、いろんな歓びがある。歳をめした方は、どうぞ、歳をとったー!などとすぐに弱音を吐かずに少しがんばってみることです、どんな分野においても。そうすれば、新たな発見があるかもしれません。老いを言い訳にしないこと。これは、ある意味、生きる知恵でもあります。
京都カウンセリングルーム
アラカルト京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人間の思考の入り口なんて、どこにも開いているもののようで、今日はジムワークから感得したことを少々。
怠惰と過食で、弛み切った肉体と、肉体が衰微すれば、当然精神の疲弊にも大いなる影響を与えるもので、今年の2月の、縮み上がるような寒さの中,怖々ジムの窓口へ。入会してから、ジムのマシーンやスタジオレッスンやバーベルやダンベルがずらりと並んだフリーウェイトゾーンを見学し、Tシャツの下の出っ張った下腹をさすりつつ、こりゃー、アカン、俺には無理や!と声にならぬ叫びをあげていたのである。試しにヤワいヨガのスタジオレッスンに参加したら、ドアをピシャリと締められた。45分間は出ることアイならん、ということらしい。パニック障害の人はどうするんじゃあ!と腹の中で毒づきつつ、パニック障害の人がこんな場所で、締め切りのスタジオでヨガの訓練なんてするはずないか、と自分が毒づいたことに毒づいている。情けなきことだ。7,8分で息が上がり、まわりの人々が悠々とやっていることについていけない。額からは、玉の汗が滴っている。無論僕だけが。10年間の怠惰な日々のツケがまわってきたわな、という嘆息が漏れる。それでもなんとかしのいで、さて、次の日からがホントの地獄のはじまりだった。
ええかっこしいが、僕の心情なので、出っ張った下腹をゆすりながら、フリーウェイトのコーナーに。隣のガタイのよろしいオニイサンの持っているのと同じ重量のダンベルに手をかけて、ウン!と力を込めたら、腰にきた。それゆえに恥ずかしいほどの軽いダンベル運動に切り替える。それでも、場をわきまえぬ僕は、超がつく初心者なのに、バーベルに挑む。手首と肩を痛めた。帰ったら、腕も上がらぬ状態で、朝目覚めたら、筋肉痛どころのさわぎではなくて、身体がそもそも動かないのである。立ち上がるのに、エイ!とかすかに残ったエネルギーをふりしぼって、ようやく立ち上がれる。そんな状態がほぼ3カ月続く。へこたれつつ、それでもジム通いは続く。
1カ月くらいするとまわりが見えて来る。高齢だろうが、僕よりも確実に若いに違いない人々のトレーニングスタイルには、ある特徴があるのに気づく。それは、僕から見ても明らかに分かる理由だ。彼らは殆どの場合、自らの限界値よりもずっと前のところで、つまりは、もっとずっと重い負荷をかけられるはずなのに、決してそうはしない。軽い重量のダンベルを振り回している。訓練の方法論もまったくのルーティーンになってしまっているのに、ルーティーンワークが安心材料のように、同じことを飽きもせずにやっているのである。これでは効果は現れない。彼らこそ僕の良き反面教師だった。
苦しいが、負荷を可能な限り上げていく。身体のどこかを痛めたら、その部位のまわりの筋力を上げて治していく。原初的だが、これが原点だろう、という確信を持ってやっていたら、まわりのガタイのいいオニイサンたちに、僕の存在が目に入りはじめたようで、適切な助言をくれる。ありがたいものである。僕のジムでの唯一のテーマは、自分の老いを言い訳にしないこと。これあるのみ。しかし、自分の体力と肉体に向き合うのに、これほどシンプルで確かな指標はないとも思う。屁理屈は有害だ。だから、僕のジム仲間は、みんな若いし、若い人たちが真摯に付き合ってもくれる。彼らの言葉はシンプルゆえに説得力がある。こういう言葉の力が必要なのだ、と思う。まともに向き合えば、財産となる言葉を得られるのである。
昨夜のトレーニングの締めの段階で、鍛え抜いた体躯を誇るある青年が僕に言った。彼は、いつも僕に対して、無茶をするな、と言い、理論的な方法論を説いてくれた青年だ。が、昨夜の彼の言。これだけ短期間に効果が出ているんだから、長野さんの踏んばりには驚くほかないね、だと。僕は心の底で彼に呟いた。いや、いや、踏んばってなんかいない。苦しくて仕方ないけど、僕は老いているから、という言い訳を封じ込めただけなんだよ、って。交わす言葉は多くはないが、ジムで鍛える仲間たちとの共有感覚は、自分の筋力の限界値を超える度に深まる。世の中、いろんな歓びがある。歳をめした方は、どうぞ、歳をとったー!などとすぐに弱音を吐かずに少しがんばってみることです、どんな分野においても。そうすれば、新たな発見があるかもしれません。老いを言い訳にしないこと。これは、ある意味、生きる知恵でもあります。
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長野安晃