○いまさらながら、自分は傲慢だったのかも、と想う。
どこが?と問われればたくさん数え上げられるけれど、特に僕が自分の死について観想を書き綴ってきた姿勢についてのこと。
僕の書く基調はこうだ。自分にとって、死ぬことはどうということはない。何故なら、生も同様に、どうというほどのものではなかったから。
ほんとに、僕という人間はこれまで、こんなことが書けるほど精一杯生きてきたのか?深い疑問に晒される。死を軽々しく論じることなかれ!そして、生を軽視することなかれ!である。
人は誰もが、自分の生がどれほどのものか、分からずに、それでも命尽き果てるその日まで精一杯生きるべき存在だ。安直に死を覚悟するよりも、惜しみなく命が惜しい!と言い切ることの方が価値があるといまは想う。市井の生を決してバカになどすることなかれ!と自分に言い聞かせている。死を畏れぬ意匠こそが、生きることの実質を台無しにする。三島由紀夫に感じるいやらしさは、僕の正常の証だ。
今日のママリング(murmuring)である。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
どこが?と問われればたくさん数え上げられるけれど、特に僕が自分の死について観想を書き綴ってきた姿勢についてのこと。
僕の書く基調はこうだ。自分にとって、死ぬことはどうということはない。何故なら、生も同様に、どうというほどのものではなかったから。
ほんとに、僕という人間はこれまで、こんなことが書けるほど精一杯生きてきたのか?深い疑問に晒される。死を軽々しく論じることなかれ!そして、生を軽視することなかれ!である。
人は誰もが、自分の生がどれほどのものか、分からずに、それでも命尽き果てるその日まで精一杯生きるべき存在だ。安直に死を覚悟するよりも、惜しみなく命が惜しい!と言い切ることの方が価値があるといまは想う。市井の生を決してバカになどすることなかれ!と自分に言い聞かせている。死を畏れぬ意匠こそが、生きることの実質を台無しにする。三島由紀夫に感じるいやらしさは、僕の正常の証だ。
今日のママリング(murmuring)である。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃