ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○随想(4)

2013-01-06 18:07:28 | 観想
○随想(4)

人の強さ・弱さについての小論を書こうとして書きそびれていました。

自分が置かれている現実を、そのときどきの年齢なりにしっかりと認識出来る力を育み、それを受け止めて、我を張らず、他者の意見にも耳を傾け、その上で自分に出来ることを可能な限り広げていく。これが言葉上の、僕なりの、人の強さの定義です。人の弱さとはこの定義の真逆です。

と、書いてみるといかにも簡単なことのようですが、これがなかなか実行出来ません。他者と云っても、聞く耳を持てるのは、限定的にAさんから、たとえばDさんまで、なんて決めたらもうそれは自己閉塞へまっしぐらですから、そうはいきません。だからここで云う他者とは自分に関わるすべての人のことです。他者の範囲をここまで広げると、ずいぶんと身勝手なことを主張する人もいるわけですし、悪くすると自己愛の塊みたいな人も混じっている可能性がありますから、耳を傾けるという行為の中には、時には、相手にとって手痛い言葉をこちらから投げ返すことも含まれてきます。

さて、こうなると、自分の思想に最大限の柔軟性を加味することが如何に難かしいか、ということに直面することになります。人の言うことを全く意に介さないのでもなく、人の言うことになんでも同調するでもない他者受容の仕方なんてあるのかしらん?と考え始めると、もういけません。ドツボにはまってしまいます。かつては、少なくとも40代くらいまでは、無意識のうちにこれが出来ていたようにも感じます。そのように思える根拠は、かなり手厳しい言葉のやりとりに耐えられる人間関係が僕のまわりには確かにあったからです。とりわけ友人たちとの付き合いにおいては、20代の頃に通用した鷹揚さがそのままのカタチで残っていたわけで、時折の邂逅で心和んだものです。

ところが、40代後半の頃からだんだんと状況は悪しき方へと向かっていきました。その頃からかつての楽しかった感情が、彼らと会っていてもどうにも白々しく感じられ、無論相手方も同じような感覚のままに付き合いがなんとか続いていたに過ぎなかったはずです。お互いの家庭環境の変化だとか、仕事上の多忙さが関係性の変化を助長させた、というような、もっともらしい理由を僕は信じていません。

僕は思うのです。それに抗おうとしてみたところで、人は歳を重ねるごとに閉塞していく存在なのかも、って。たぶん、家族という人間の最小ユニットの中ですら、通じ合えないものを感じ、さりとて簡単に解消することもままならず、家族という形骸だけが残ってしまう、その最終段階が、<老い>という実質的な姿・カタチではなかろうか?って。だとしたら、老いるというのは、すべての虚飾を剥ぎ取った孤独そのものとの対峙と同義語ではないのか?なんて考えてみたくもなって来ます。ええい、こうなったら、歳をとることにまつわる寂寥感を執拗に書き綴っていこうかしらん、と、ヤケッパチな決意?すら新たにする始末。年始のご挨拶には少々不向きでしょうけれど、それでもこれは僕なりの自己閉塞感との闘いの、か弱き人間の独白の一片です。今日の観想として書き遺します。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃


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