ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

○ママリング(murmuring)宣言!

2013-02-02 16:05:17 | 観想
○ママリング(murmuring)宣言!

人に語りたくて、伝えたくて、自分の脳髄を巡る思念を言葉という手段で具現化しようにも、それらを言語化した途端に伝えるべき事象が変容してしまう。もし、純朴な言語至上主義者のままにこの世界に居座れたとしたら、どれほど幸福なことだろうか、と想う。

僕が生の総括と称して、時として、つまらない政治ネタとか経済ネタに引きずられつつも、ここに書き始めてからもうずいぶんと長い時間が経つ。読み返す機会もあまりなく、書き綴ってきて、最近になって、書き留めたものを読み返すようになり、何で自分はこんなバカげた、大して内実のない個人史にこだわり続けてきたのだろうか、という疑問。そして、それらを人様に晒していったいどうなるのか?という羞恥とがないまぜになった感情の渦に呑み込まれそうになる。この2.3ヶ月間、僕は浮かんだアイディアをいくつも闇の中に葬ってきたのは、こういう経緯があったからだ。

突き詰めて考えれば、これまで自分を突き動かしてきたのは、所謂世界に対する憤怒の情である。否応なく人生の袋小路に追い込まれ、常にまとわりつく過去の幻影を振り払え切れず、なんでオレはこんな人生を送らねばならないのか?という深い憤りの只中で身悶えするばかり。その身体の震えを言語化するために書き続けてきただけの、手前味噌な「生の総括」なのだ。こんなところに自分の真の姿などあろうはずがない。もし、あるとするなら、それは大した意味なき独白か、あるいは呟き程度の実質しかないのではないか、と想う。それならば、「生の総括」などと呼ばず、ママリング(murmuring)-ざわめく音、あるいはささやき声-と命名することにしようか?

ママリングであるなら、もはや何らの構えも必要ない。思いのままに呟けばいいのである。無論、そこにはこれまで不十分ながらも時折は成功しただろう、個人的事象から普遍化へ、という思考のベクトルは脆弱、希薄、あるいは、皆無になるやも知れぬ。が、同時に他者への押し付けがましさからは全く解放される、ということでもある。

軽く、短く、ときには前言を撤回したかのごとき、大言壮語をあくまで呟こう、と想う。今日はまずは方針転換のご挨拶。今後ともにどうぞよろしく。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃


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