デラシネという言葉がある。フランス語から来たカタカタ語だそうな。言葉の定義は、<根無し草、故郷を持たぬ人>のことらしい。ずっと昔、少年の頃、五木寛之という作家(いまは仏教回帰のただのおっさんになりさがり、人生を分かったふうに啓発する本を書いて自己満足しているから、作家とは認めていない)の「青年は荒野をめざす」という文庫本を読んで結構感激して読んだ覚えがある。五木の作品はいくつか読み続けていたが、どの作品だったか、デラシネという言葉を拾い出して、それが頭から離れないだけの話なのである。その後興味が失せて、だいぶ長い間存在すら忘れていて、本棚の埃を被った古びた文庫本のいくつにさっと目を通してみると、どれもこれも何ともつまらない内実で、それどころか作家としても三流どころがいいところで、若き頃の読書なんてあてにならない、ということを思い知った。晩年になって、五木が仏教回帰して啓発本もどきを書いているのは当然の結末だと想う。たぶん、まじかに迫った自己の死を受け入れがたいのだろう。その意味では表現手段を持たない大多数の読者の側にいる人々の方が、自己の死に対する立ち向かい方という点で、どれほど潔いかわかったものではない。
前置きが長くなったが、今日書きたかったのは、デラシネという言葉についてである。もっと正確に云うと、自分の最晩年に突き当たった生の在りようが、まさに根無し草、故郷と定義出来るところもないものだったことへの気づきである。かつての親戚縁者も現実には存在するが、すべてが、これ無縁のごときもので、たぶん、僕が自分のことをデラシネとして生きる、と称しても、デレッタントの、これ見よがしの装いすらおぼつかないほどに、デラシネそのものの生きざまなのである。こうなると、どうしようもなく情けなく、この世界に自分を認識してくれる人がいったい何人いるのだろう、と真面目に考え始める。思春期の、孤独ではないのに孤独を発見した青年の心的現象から、言葉の定義どおりの孤独を身にまとったのが、いまの自分である。
たいした金もないのに、プチ浪費家である。精神的瓦解の現れである。その証拠に、同じ種類のものばかり買ってしまう。たとえば時計、たとえば眼鏡。その他いろいろ。いったいいくつ体がある?死ぬまでに必要な数を遥かに上回っているのではないか?と煩悶しつつも、同じことを繰り返す。まだ、買い物依存症ならいいのかも知れない。それは何らかの精神的欠落感を埋めるための代償行為だからである。しかし、デラシネを意識した人間にとって、そもそも埋め合わせるものなどハナからない。僕にとっての買い物は、墓場まで持っていけねえほどだ、このやろう!と叫びつつ、終焉に向かいながら空しく行う作業のようなものだ。
結論=老年に至って、デラシネなんていう言葉にこだわるほど見苦しいものはない。僕は見苦しくてもいい、なんて開き直ってはいない。出来ることなら、こんな言葉に捉われる自分からいつか自由になりたい、と心底想っているのである。五木寛之のような精神的空中転回をやらずに、ね。これはホントの決意です。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
前置きが長くなったが、今日書きたかったのは、デラシネという言葉についてである。もっと正確に云うと、自分の最晩年に突き当たった生の在りようが、まさに根無し草、故郷と定義出来るところもないものだったことへの気づきである。かつての親戚縁者も現実には存在するが、すべてが、これ無縁のごときもので、たぶん、僕が自分のことをデラシネとして生きる、と称しても、デレッタントの、これ見よがしの装いすらおぼつかないほどに、デラシネそのものの生きざまなのである。こうなると、どうしようもなく情けなく、この世界に自分を認識してくれる人がいったい何人いるのだろう、と真面目に考え始める。思春期の、孤独ではないのに孤独を発見した青年の心的現象から、言葉の定義どおりの孤独を身にまとったのが、いまの自分である。
たいした金もないのに、プチ浪費家である。精神的瓦解の現れである。その証拠に、同じ種類のものばかり買ってしまう。たとえば時計、たとえば眼鏡。その他いろいろ。いったいいくつ体がある?死ぬまでに必要な数を遥かに上回っているのではないか?と煩悶しつつも、同じことを繰り返す。まだ、買い物依存症ならいいのかも知れない。それは何らかの精神的欠落感を埋めるための代償行為だからである。しかし、デラシネを意識した人間にとって、そもそも埋め合わせるものなどハナからない。僕にとっての買い物は、墓場まで持っていけねえほどだ、このやろう!と叫びつつ、終焉に向かいながら空しく行う作業のようなものだ。
結論=老年に至って、デラシネなんていう言葉にこだわるほど見苦しいものはない。僕は見苦しくてもいい、なんて開き直ってはいない。出来ることなら、こんな言葉に捉われる自分からいつか自由になりたい、と心底想っているのである。五木寛之のような精神的空中転回をやらずに、ね。これはホントの決意です。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃