○精神の果ての果ての旅路へと向かおうではないか!
誰に対する呼びかけでもありません。あくまで自己に対する最晩年の生きかたを自問しているのです。自問のプロセスを今日は書き記すことになります。ご辛抱あれ。
人生60年も生き抜き、それも何度も命を失う危機的状況が襲って来ては、何気なくその危機を乗り切ってきたわけで、また幾度となく絶望の淵にも立たざるを得なかったのは必然で、それでもいまこうして息絶えることなくこの世界にはばかっているという現実は、一体僕にとってどんな意味があるのかと、他愛もない自問をついついしてしまう。もうこれくらいでいいのだろうか?という諦念の気分と、いや、まだまだこの世界に自分の足跡を、たとえ自己満足であれ、残しておいてやろうか、というふつつかな欲望も無きにしも非ず。簡単に総括してしまえば、こんなところがまずまずの捉えどころであり、ああやはり自分とは凡庸な存在に過ぎんなあ、という深き嘆息を吐く。
人のために何かを成し遂げたのか、と言えば、答えは簡単に出る。断然ノーである。人に何らかの迷惑をかけたのか、と問えば、その答えはまごうことなくイエスである。いずれにせよ、つまらない存在者としてしか世にはばかることのできないのが、どうも僕という実像らしい。もうここまで自己という不可思議な意味が不可思議でも何でもなくなり、無益な役立たず、という自己像が明らかになれば、後はもう居直るしか生きる術などないではないか。
僕の一存で勝手に規定した<からだ>という概念―精神と肉体の不文律の原則―を、またこの場でも懲りずに適用するなら、勿論<からだ>という概念は僕にとっての不文律であるから、精神と肉体との分離などというお粗末なことは云わないが、不文律の原則にのっかるとしても、これから先の人生、特に精神性、とは言っても、僕のそれだからたいそうなものではないに決まってはいるが、それでも意地をはりつつ、敢えて、僕は精神の果ての果ての旅路へと突き進んでいこうか、と心密かに思っている。何ともはかない旅路になるだろうが、それはそれ。打ち寄せてくる虚無感を両の手で払いながらの、ドタバタ劇になるのも厭わず、まっしぐら。もうこれしかない、と感じる。
尊敬して止まなかった小田実ですら、あのスタミナ漫々の小田ですら、75歳で鬼籍に入ったわけで、僕ごとき軟弱な男の残りの人生の日数などたぶん数えるのに大した時間はかからぬだろう。さて、その限られた時間の中で、一体どこまで突き進めるのか、皆目見当もつかない。どう自分勝手に考えても、何らかの纏まった人生譚など残せるはずもなし。たぶん思いつきのような脈絡のない読書からヒントらしきものを嗅ぎ分けて、この種の日記を書くのが精一杯だろう。これが僕の精神の果ての果ての旅路だと思うと情けなくて涙も出ないが、自分の実力なんだから致し方ない。出来ることなら、何だかんだと理屈をつけないで、余計な理性の贅肉を剥ぎ取って、限りなく尖ったエピキュリアンに徹してやろうかしらん。それなら世間知や世間体などというアホらしい精神の土俵からさっさと降りたところから世界が視えるやも知れぬ。その結果視たつもりだったはずの世界が、顕微鏡の中の微細なものでも納得するしかないとは思う。それが僕という人間の生のケリのつけ方であるなら、潔く認めるしかない。さて、こんなふうにいろんな言い訳をして、僕は僕自身の精神の果ての果ての旅へと邁進していこうか、と思う。何にも発見出来ない旅路であれ、虚無を認める勇気は持っているつもりではいる。残り少ない人生、自分らしく生きたいものである。今日の観想として書き遺す。
○推薦図書「オキーフの恋人 オズワルドの追憶」(上)(下) 辻 仁成著。新潮文庫。辻はキザな野郎ですけど、作品は決してキザな出来ではありません。テーマといい、プロットの運びといい、卓抜な作家です。この作品は現実と虚構とがパラレルに進行していくおもしろさをもった飽きない作品です。人生に倦み疲れた方は気晴らしにどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
誰に対する呼びかけでもありません。あくまで自己に対する最晩年の生きかたを自問しているのです。自問のプロセスを今日は書き記すことになります。ご辛抱あれ。
人生60年も生き抜き、それも何度も命を失う危機的状況が襲って来ては、何気なくその危機を乗り切ってきたわけで、また幾度となく絶望の淵にも立たざるを得なかったのは必然で、それでもいまこうして息絶えることなくこの世界にはばかっているという現実は、一体僕にとってどんな意味があるのかと、他愛もない自問をついついしてしまう。もうこれくらいでいいのだろうか?という諦念の気分と、いや、まだまだこの世界に自分の足跡を、たとえ自己満足であれ、残しておいてやろうか、というふつつかな欲望も無きにしも非ず。簡単に総括してしまえば、こんなところがまずまずの捉えどころであり、ああやはり自分とは凡庸な存在に過ぎんなあ、という深き嘆息を吐く。
人のために何かを成し遂げたのか、と言えば、答えは簡単に出る。断然ノーである。人に何らかの迷惑をかけたのか、と問えば、その答えはまごうことなくイエスである。いずれにせよ、つまらない存在者としてしか世にはばかることのできないのが、どうも僕という実像らしい。もうここまで自己という不可思議な意味が不可思議でも何でもなくなり、無益な役立たず、という自己像が明らかになれば、後はもう居直るしか生きる術などないではないか。
僕の一存で勝手に規定した<からだ>という概念―精神と肉体の不文律の原則―を、またこの場でも懲りずに適用するなら、勿論<からだ>という概念は僕にとっての不文律であるから、精神と肉体との分離などというお粗末なことは云わないが、不文律の原則にのっかるとしても、これから先の人生、特に精神性、とは言っても、僕のそれだからたいそうなものではないに決まってはいるが、それでも意地をはりつつ、敢えて、僕は精神の果ての果ての旅路へと突き進んでいこうか、と心密かに思っている。何ともはかない旅路になるだろうが、それはそれ。打ち寄せてくる虚無感を両の手で払いながらの、ドタバタ劇になるのも厭わず、まっしぐら。もうこれしかない、と感じる。
尊敬して止まなかった小田実ですら、あのスタミナ漫々の小田ですら、75歳で鬼籍に入ったわけで、僕ごとき軟弱な男の残りの人生の日数などたぶん数えるのに大した時間はかからぬだろう。さて、その限られた時間の中で、一体どこまで突き進めるのか、皆目見当もつかない。どう自分勝手に考えても、何らかの纏まった人生譚など残せるはずもなし。たぶん思いつきのような脈絡のない読書からヒントらしきものを嗅ぎ分けて、この種の日記を書くのが精一杯だろう。これが僕の精神の果ての果ての旅路だと思うと情けなくて涙も出ないが、自分の実力なんだから致し方ない。出来ることなら、何だかんだと理屈をつけないで、余計な理性の贅肉を剥ぎ取って、限りなく尖ったエピキュリアンに徹してやろうかしらん。それなら世間知や世間体などというアホらしい精神の土俵からさっさと降りたところから世界が視えるやも知れぬ。その結果視たつもりだったはずの世界が、顕微鏡の中の微細なものでも納得するしかないとは思う。それが僕という人間の生のケリのつけ方であるなら、潔く認めるしかない。さて、こんなふうにいろんな言い訳をして、僕は僕自身の精神の果ての果ての旅へと邁進していこうか、と思う。何にも発見出来ない旅路であれ、虚無を認める勇気は持っているつもりではいる。残り少ない人生、自分らしく生きたいものである。今日の観想として書き遺す。
○推薦図書「オキーフの恋人 オズワルドの追憶」(上)(下) 辻 仁成著。新潮文庫。辻はキザな野郎ですけど、作品は決してキザな出来ではありません。テーマといい、プロットの運びといい、卓抜な作家です。この作品は現実と虚構とがパラレルに進行していくおもしろさをもった飽きない作品です。人生に倦み疲れた方は気晴らしにどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃