ひさびさにメルリ・ストリープ主演映画だったし、上映時間ぎりぎりだったので、映画館まで駆け足で辿りつき、チケットを手にして、少々暑すぎる映画館の席にもぐりこんだ。「恋するベーカリー」という映画のストーリーをまるで知らずに行ったのだから文句は言えないが、テレビでチラリとパン屋で立ち働くメルリ・ストリープの姿を観て、現代のアメリカ庶民の生活を演じる彼女の姿を想像していただけに、実際に映画を観たら、そこにはあまりに裕福な生活をおくる彼女と離婚した元夫の敏腕弁護士との、つかの間の、喪失した愛の再生と崩壊とが描かれていた。二人は愛を語りながらも、おとなの性があまりにも卑猥な描かれ方をしていて、僕には、愛とセックスが別物のように感じられ、観ていてあまり心地よい作品ではなかった。その観想を簡単に書き記すと、がっかりした、という表現がぴったりと当てはまる、と思う。
映画のはじまりは、空はどこまでも青く、海はエメラルドグリーン。海岸の遥か上に点在する上流階級の家に住むメルリ・ストリープは、お上品なベーカリーを経営する富裕層に属する女性である。若い女性に走った夫との離婚が与えた精神的ダメージは、長年通い詰めているセラピストとの会話の中で、また彼女の立派に過ぎる家の増築を担当する一流の建築家との淡い恋の芽生えの会話の中で推し量ることが出来る。しかし、彼女を取り巻く生活環境は、現代のアメリカの庶民とはかけ離れたもののようで、単なる娯楽としても中途半端だし、夢物語として鑑賞するには、性と体臭がない交ぜになっているような、微妙にリアリステックな描写が邪魔をして、中途半端な出来栄えの映画だった。もし、敢えてあの映画に意味を見出すとしたら、もはや現代の殆どのアメリカ人には手の届かなくなった生活空間の中での、夢の追憶の物語か、と感じ取れなくはない。
メルリ・ストリープは、好き嫌いはあるだろうが、とても美的なものを感じさせる女優である。僕の観想では、そういう美的な要素が、語弊はあるだろうが、汚れ役を演じさせたらピカ一の演技が生きる数少ない女優である。どこまでも豊かなだけの生活空間の中の彼女は、かえって老いの影を感じさせているようで、それでいて、老いてこそ深みのある演技には及び得ないものを感じざるを得ず、何とも消化不良を起こさせる映画なのである。
「ルポ貧困大国アメリカⅡ」(岩波親書)を読んでいて、現在のアメリカ社会が少数の富裕階層と、多くのワーキングプアを生み出している状況は、もはやアメリカがかつての日本人が夢見たような豊かな文化をもち得ない国になり果てた、と感得するに十分な要素で満ち溢れている。勿論ルポルタージュというものが、著者の思想がその本質にあって、彼/彼女の思想に従ったルポルタージュであるという要素を十分にわきまえた上で読み解いているつもりであるが、それにしても、現代のアメリカの文化的・文明的病根がもたらす現象は隠しようもなく伝わってくる。そのような中に、この「恋するベーカリー」を位置づけて考えると、登場人物たちの陰に隠れた累々とした貧困層に属さざるを得ない人々の声なき声が聞こえてきそうで、かえって複雑な気分に陥った。
帰り道、呑んだコーヒーが思いのほか苦かったのは、たぶん、今日の映画が僕に与えた影響と無関係ではなかっただろう。
京都カウンセリングルーム
映画のはじまりは、空はどこまでも青く、海はエメラルドグリーン。海岸の遥か上に点在する上流階級の家に住むメルリ・ストリープは、お上品なベーカリーを経営する富裕層に属する女性である。若い女性に走った夫との離婚が与えた精神的ダメージは、長年通い詰めているセラピストとの会話の中で、また彼女の立派に過ぎる家の増築を担当する一流の建築家との淡い恋の芽生えの会話の中で推し量ることが出来る。しかし、彼女を取り巻く生活環境は、現代のアメリカの庶民とはかけ離れたもののようで、単なる娯楽としても中途半端だし、夢物語として鑑賞するには、性と体臭がない交ぜになっているような、微妙にリアリステックな描写が邪魔をして、中途半端な出来栄えの映画だった。もし、敢えてあの映画に意味を見出すとしたら、もはや現代の殆どのアメリカ人には手の届かなくなった生活空間の中での、夢の追憶の物語か、と感じ取れなくはない。
メルリ・ストリープは、好き嫌いはあるだろうが、とても美的なものを感じさせる女優である。僕の観想では、そういう美的な要素が、語弊はあるだろうが、汚れ役を演じさせたらピカ一の演技が生きる数少ない女優である。どこまでも豊かなだけの生活空間の中の彼女は、かえって老いの影を感じさせているようで、それでいて、老いてこそ深みのある演技には及び得ないものを感じざるを得ず、何とも消化不良を起こさせる映画なのである。
「ルポ貧困大国アメリカⅡ」(岩波親書)を読んでいて、現在のアメリカ社会が少数の富裕階層と、多くのワーキングプアを生み出している状況は、もはやアメリカがかつての日本人が夢見たような豊かな文化をもち得ない国になり果てた、と感得するに十分な要素で満ち溢れている。勿論ルポルタージュというものが、著者の思想がその本質にあって、彼/彼女の思想に従ったルポルタージュであるという要素を十分にわきまえた上で読み解いているつもりであるが、それにしても、現代のアメリカの文化的・文明的病根がもたらす現象は隠しようもなく伝わってくる。そのような中に、この「恋するベーカリー」を位置づけて考えると、登場人物たちの陰に隠れた累々とした貧困層に属さざるを得ない人々の声なき声が聞こえてきそうで、かえって複雑な気分に陥った。
帰り道、呑んだコーヒーが思いのほか苦かったのは、たぶん、今日の映画が僕に与えた影響と無関係ではなかっただろう。
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