人は何によって傷つき、何によって救われ、何によって癒されるのか? 別に難しい問題ではない。それは愛によってである。しかし、愛とは何か? という疑問が湧いてくる。同情でもなく、哀れみでもなく、叱咤激励でもない。あるいは、相手を独占したり、精神的に縛ったり、好き勝手に繰ることでは勿論ない。これらは愛に似た形をとることはあるが、愛そのものではない。人が愛を失った、と嘆くのは、限りなく愛に似た精神の型を、愛と錯覚するからである。生涯、愛とは無縁の生活を送る夫婦もいるだろう、と思う。ただ、きちんとした言葉に出来なくても、そのことに気づく人々もいる。夫婦関係の場合は、ご主人の仕事のサポートをし、子育てをし、家計をきりもりしているうちに、取り返しのつかない年齢を迎えていることもある。そのことに皮膚感覚ででも感じた人は、所謂熟年離婚を敢えて決行する。これは女性の方からの宣告の方が断然多いと聞く。これは仕方がない。男は仕事にかまけているか、仕事絡みの浮気相手との性愛で、人生を乗り切ってきたつもりなのだろうから。簡単に割り切りの不倫に走る主婦たちは問題外だが、真面目に家庭を支えてきた妻の憤りは、夫であるパートナーの定年後に生涯最大の自己主張をしはじめる。これが熟年離婚のおおかたのありようだろう、と思う。おたおたするのは男の側である。女性は自分の力で自立してしまうのである。夫と妻の間に出来た大きな溝である。
分かりやすい例を挙げたが、愛とは、前記したことと矛盾する面もある。愛は縦横無尽に行き交い、錯綜し、人間の心に歓喜と至福の兆候を刻印もすれば、愛が存在することによって、絶望もする。それが愛の不思議である。男女の愛、親子の愛、兄弟姉妹愛、等々。
さて、愛を語るなら、建設的に語ろう、と思う。ともあれ、愛は明るくなければならない。じめじめした愛はいずれ、その湿気で中抜けになるし、嫉妬に傾いた愛は男女をお互いに疲れさせる。愛には未来という要素が含まれているべきである。いまのような希望を抱きにくい世の中だからこそ、愛には希望という要素も含まれていなければならないのではないか? 愛はお互いを縛り合うものではない。愛は互いを解放し合う存在である。さらに愛は互いの自立を喜ばしいものだ、と感じ合えるものでなければ無意味である。そうでなければ、そこに愛は育ちはしない。夫婦関係と言えども、それだけで無為な日常を送っているとするなら、愛は空虚な存在に転化する。実質的にこの場合は夫婦関係は破綻してしまう。あるいは、おいおい破綻に向かって突き進む。最も悲劇的な破綻の例は前記した定年後離婚、熟年離婚というものである。人生の終盤で起こる悲劇なのである。もう引き返しようもない。これが悲劇でなくて何であろうか?
さて、愛を男女ともども互いの自立のために育もうではないか。愛は解放であり、自由であり、縦横無尽である。そういう認識に立って、生きていこうではないか。いかがですか?
○推薦図書「逃げてゆく愛」 ベルンハルト・シュリンク著。新潮文庫。さまざまな人生の悲喜劇、男と女のスリリングな愛の局面が繰り広げられる長い余韻を残す短編集です。味わい深い作品群です。
分かりやすい例を挙げたが、愛とは、前記したことと矛盾する面もある。愛は縦横無尽に行き交い、錯綜し、人間の心に歓喜と至福の兆候を刻印もすれば、愛が存在することによって、絶望もする。それが愛の不思議である。男女の愛、親子の愛、兄弟姉妹愛、等々。
さて、愛を語るなら、建設的に語ろう、と思う。ともあれ、愛は明るくなければならない。じめじめした愛はいずれ、その湿気で中抜けになるし、嫉妬に傾いた愛は男女をお互いに疲れさせる。愛には未来という要素が含まれているべきである。いまのような希望を抱きにくい世の中だからこそ、愛には希望という要素も含まれていなければならないのではないか? 愛はお互いを縛り合うものではない。愛は互いを解放し合う存在である。さらに愛は互いの自立を喜ばしいものだ、と感じ合えるものでなければ無意味である。そうでなければ、そこに愛は育ちはしない。夫婦関係と言えども、それだけで無為な日常を送っているとするなら、愛は空虚な存在に転化する。実質的にこの場合は夫婦関係は破綻してしまう。あるいは、おいおい破綻に向かって突き進む。最も悲劇的な破綻の例は前記した定年後離婚、熟年離婚というものである。人生の終盤で起こる悲劇なのである。もう引き返しようもない。これが悲劇でなくて何であろうか?
さて、愛を男女ともども互いの自立のために育もうではないか。愛は解放であり、自由であり、縦横無尽である。そういう認識に立って、生きていこうではないか。いかがですか?
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