私たちをとりまく社会的・経済的状況について想うこと。
経済学や社会学の専門家でなくても、現代という時代は、世界的な構造不況に見舞われているという現実は誰の目にも明らかに見え、またその厳し過ぎるほどの影響下にあることを実感せざるを得ない不幸な状況と言えるでしょう。日本においては、戦後からの実質的な自民党独裁政治がもたらした諸々のツケがまわってきているのだろうと思います。私がここで明らかにしたいのは、特に55年体制といわれる自由党・民主党の合一体としての自由民主党政権下において、世界規模で見れば、日米安保条約という不確かな軍事同盟と、経済的にはアメリカの属国であるかのごとき情勢のもとで、非常に不安定な経済的基盤の上に立った、所謂高度経済成長を成し遂げたのが日本という国だと言えるのではないでしょうか。昭和という時代性の中には、それでも緩やかな社会主義的な要素も企業の中には散見出来ました。ある程度の波はあったにせよ、労働者の賃金は順調に伸びていきましたし、終身雇用制度という、労働者にとっては、会社で頑張れば何とか持家の一軒も持てる環境でもありました。当のアメリカにおいては、日本のような終身雇用制度もなければ、社会保険制度すら満足にない状態でもありましたが、なにせ、世界経済を牛耳るだけの政治的・経済的な力がありました。そのような思想の底に根ざしていたのは、素朴な人間の可能性としてのアメリカン・ドリームという、能力ある者には成功のチャンスが平等にあるのだ、という思想でした。そこには、社会福祉という理念抜きの、弱肉強食の実力主義によって経済的な地盤を確固たるものにしてきた酷薄な歴史が横たわっています。アメリカの政治は、どこまでも時代遅れの、形を変えた帝国主義的な他国への軍事侵略によって、経済界の要求を満たしてきたのです。
しかし、いまや、日本の頼みの綱であったアメリカの経済の基盤が雪崩をうったように崩壊しつつあります。失業率いまだに改善しません。それなのに、いまだにアメリカの大企業の経営者たちは自分たちの保身と、巨額の報酬を維持するために、簡単に労働者の首切りを強行します。業績が悪くなれば、まず労働者の賃金カット、さらに無慈悲な解雇という結果を、経営努力もまともにするどころか、業績が悪化すれば、労働者の首切りなどは、あたりまえのことのように考えてきたのです。アメリカ頼りの経済なのですから、アメリカの経済が脆弱になれば、日本の経済の根幹が揺らぎます。当のアメリカが社会保障の改善に乗り出しているのに、日本は真逆のことを実行しました。アダム・スミスが現代に甦ったかのような、過酷な自由競争社会という名の、労働者切り捨て御免の時代に突入してしまいました。その意味で21世紀という時代は過酷で残酷な時代です。真面目に働いても労働力に見合う賃金を貰えません。21世紀を背負って立つ、若き人々の仕事すらまともに創設することが出来なくなりました。当然、終身雇用制度も過去の遺物と化しました。大学を出てもなかなか就職口を見つけることが出来ません。生活が安定する保障がないのですから、未来に対する展望や夢を持つことなど出来るはずがありません。自殺者が年間3万人を超える連続記録がいったいどこまで伸びるというのでしょうか。
日米安保条約という軍事同盟によって、戦後ずっとアメリカは日本に居座りました。基地の維持費など、まるで寄生虫のように日本の税金に頼るだけの傲慢さです。いま、沖縄の軍事基地の移転問題で、日本政府は苦渋の選択を強いられています。しかし、考えてみれば、これまで、沖縄の犠牲の上に、及び沖縄県外のアメリカの基地を抱えた地域の人間に、どれだけ日本政府が多くを負ってきたのかを考えれば、もはやアメリカの顔色などを気にしている場合ではないのではないでしょうか。極端な例を言えば、もし、日本が国内に数多(あまた)あるアメリカの軍事基地など一切必要ないと主張すれば、日本を守るどころか、日本を攻撃してくるのは、アメリカではないでしょうか。第二次大戦の敗北などすでに決定的だったときに、敢えてアメリカは戦後政策のために2発も日本に原子爆弾を落とした国です。世界中の利権を貪るために、戦争を絶やしたことのない国、それがアメリカという病める国なのです。
経済的にもアメリカは、もはや日本を貿易の相手国としても見放したも同然です。彼らは日本を飛び越えて、中国という巨大マーケットを視野に入れています。あるいは、東南アジア諸国に活路を見出すべく政策変更をしつつあります。アメリカなどではなく、いまこそ日本の方が、中国を含めた東南アジア、アフリカ、中南米諸国を視野に入れたマーケットの開発を重点的になすべき時期にきているのです。アメリカの世界食糧戦略によって、世界、その中でも最も大きな影響、あるいは日本の農業を台無しにしたという意味で、被害といっても差し支えないでしょうが、それらをモロに受けた日本は、技術立国としてだけではなく、農業の再生をかけた農業立国としての両面から、世界に対して貢献し、その結果が日本の存立を揺るぎないものにするよう、努力する必要があるでしょう。これは、第二次世界大戦で日本が中国・アジア諸国を侵略したような、あるいは、明治維新における征韓論をはじめとするアジア諸国に対する後進の植民地主義的思想に考え方の根拠を置くことなく、あくまで、貿易相手国との対等の立場で、相手国の国益を高め、そのことが日本の国益と合致するような貢献を思想化しなければならないでしょう。ここにおいて初めて、文字通りのグロ-バライゼーションの意義が実現するのです。これまで、アメリカの御用聞きのごとき政治家たちや、自由競争という名のもとに、なりふりかまわぬ弱肉強食のエセ・グローバライゼーションから脱却しなければ、日本という国が世界に果たすべき役割はなきに等しいものになり果てるでしょう。また、このような思想性に根ざした政治的・経済的政策の実行のプロセスでこそ、日本国内の全ての産業が活性化し、日本の未来に希望が見出せるのではないでしょうか。若き人々が自己の未来に希望を託せる国として、日本は再出発すべきです。それこそが、日本人が抱えているあらゆる心の病を癒すことと無関係ではないでしょうし、また日常性に対する鬱屈した想いからの脱却も出来るというものです。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
経済学や社会学の専門家でなくても、現代という時代は、世界的な構造不況に見舞われているという現実は誰の目にも明らかに見え、またその厳し過ぎるほどの影響下にあることを実感せざるを得ない不幸な状況と言えるでしょう。日本においては、戦後からの実質的な自民党独裁政治がもたらした諸々のツケがまわってきているのだろうと思います。私がここで明らかにしたいのは、特に55年体制といわれる自由党・民主党の合一体としての自由民主党政権下において、世界規模で見れば、日米安保条約という不確かな軍事同盟と、経済的にはアメリカの属国であるかのごとき情勢のもとで、非常に不安定な経済的基盤の上に立った、所謂高度経済成長を成し遂げたのが日本という国だと言えるのではないでしょうか。昭和という時代性の中には、それでも緩やかな社会主義的な要素も企業の中には散見出来ました。ある程度の波はあったにせよ、労働者の賃金は順調に伸びていきましたし、終身雇用制度という、労働者にとっては、会社で頑張れば何とか持家の一軒も持てる環境でもありました。当のアメリカにおいては、日本のような終身雇用制度もなければ、社会保険制度すら満足にない状態でもありましたが、なにせ、世界経済を牛耳るだけの政治的・経済的な力がありました。そのような思想の底に根ざしていたのは、素朴な人間の可能性としてのアメリカン・ドリームという、能力ある者には成功のチャンスが平等にあるのだ、という思想でした。そこには、社会福祉という理念抜きの、弱肉強食の実力主義によって経済的な地盤を確固たるものにしてきた酷薄な歴史が横たわっています。アメリカの政治は、どこまでも時代遅れの、形を変えた帝国主義的な他国への軍事侵略によって、経済界の要求を満たしてきたのです。
しかし、いまや、日本の頼みの綱であったアメリカの経済の基盤が雪崩をうったように崩壊しつつあります。失業率いまだに改善しません。それなのに、いまだにアメリカの大企業の経営者たちは自分たちの保身と、巨額の報酬を維持するために、簡単に労働者の首切りを強行します。業績が悪くなれば、まず労働者の賃金カット、さらに無慈悲な解雇という結果を、経営努力もまともにするどころか、業績が悪化すれば、労働者の首切りなどは、あたりまえのことのように考えてきたのです。アメリカ頼りの経済なのですから、アメリカの経済が脆弱になれば、日本の経済の根幹が揺らぎます。当のアメリカが社会保障の改善に乗り出しているのに、日本は真逆のことを実行しました。アダム・スミスが現代に甦ったかのような、過酷な自由競争社会という名の、労働者切り捨て御免の時代に突入してしまいました。その意味で21世紀という時代は過酷で残酷な時代です。真面目に働いても労働力に見合う賃金を貰えません。21世紀を背負って立つ、若き人々の仕事すらまともに創設することが出来なくなりました。当然、終身雇用制度も過去の遺物と化しました。大学を出てもなかなか就職口を見つけることが出来ません。生活が安定する保障がないのですから、未来に対する展望や夢を持つことなど出来るはずがありません。自殺者が年間3万人を超える連続記録がいったいどこまで伸びるというのでしょうか。
日米安保条約という軍事同盟によって、戦後ずっとアメリカは日本に居座りました。基地の維持費など、まるで寄生虫のように日本の税金に頼るだけの傲慢さです。いま、沖縄の軍事基地の移転問題で、日本政府は苦渋の選択を強いられています。しかし、考えてみれば、これまで、沖縄の犠牲の上に、及び沖縄県外のアメリカの基地を抱えた地域の人間に、どれだけ日本政府が多くを負ってきたのかを考えれば、もはやアメリカの顔色などを気にしている場合ではないのではないでしょうか。極端な例を言えば、もし、日本が国内に数多(あまた)あるアメリカの軍事基地など一切必要ないと主張すれば、日本を守るどころか、日本を攻撃してくるのは、アメリカではないでしょうか。第二次大戦の敗北などすでに決定的だったときに、敢えてアメリカは戦後政策のために2発も日本に原子爆弾を落とした国です。世界中の利権を貪るために、戦争を絶やしたことのない国、それがアメリカという病める国なのです。
経済的にもアメリカは、もはや日本を貿易の相手国としても見放したも同然です。彼らは日本を飛び越えて、中国という巨大マーケットを視野に入れています。あるいは、東南アジア諸国に活路を見出すべく政策変更をしつつあります。アメリカなどではなく、いまこそ日本の方が、中国を含めた東南アジア、アフリカ、中南米諸国を視野に入れたマーケットの開発を重点的になすべき時期にきているのです。アメリカの世界食糧戦略によって、世界、その中でも最も大きな影響、あるいは日本の農業を台無しにしたという意味で、被害といっても差し支えないでしょうが、それらをモロに受けた日本は、技術立国としてだけではなく、農業の再生をかけた農業立国としての両面から、世界に対して貢献し、その結果が日本の存立を揺るぎないものにするよう、努力する必要があるでしょう。これは、第二次世界大戦で日本が中国・アジア諸国を侵略したような、あるいは、明治維新における征韓論をはじめとするアジア諸国に対する後進の植民地主義的思想に考え方の根拠を置くことなく、あくまで、貿易相手国との対等の立場で、相手国の国益を高め、そのことが日本の国益と合致するような貢献を思想化しなければならないでしょう。ここにおいて初めて、文字通りのグロ-バライゼーションの意義が実現するのです。これまで、アメリカの御用聞きのごとき政治家たちや、自由競争という名のもとに、なりふりかまわぬ弱肉強食のエセ・グローバライゼーションから脱却しなければ、日本という国が世界に果たすべき役割はなきに等しいものになり果てるでしょう。また、このような思想性に根ざした政治的・経済的政策の実行のプロセスでこそ、日本国内の全ての産業が活性化し、日本の未来に希望が見出せるのではないでしょうか。若き人々が自己の未来に希望を託せる国として、日本は再出発すべきです。それこそが、日本人が抱えているあらゆる心の病を癒すことと無関係ではないでしょうし、また日常性に対する鬱屈した想いからの脱却も出来るというものです。
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文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃