ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

小田 実再々考

2008-03-10 23:54:45 | 政治経済・社会
○小田 実再々考

昨日、小田 実という知的巨人が、華々しくベ平連(ベトナムに平和を! 市民連合)の代表者の一人として、当時、極左暴力革命を、単純なアメリカ帝国主義打倒 ! という上っ面だけの、括弧つきの闘いに身を投じていた僕たちに対峙するかのごとく、大いなる壁として立ち現れたと書いた。負けた ! と正直に思った。僕たち極左運動家たちの活動は、日常性を切り捨ててこそ成り立っている運動だった。こうした闘いは、いっときの大衆の高揚感とうまく合致したときにのみ、大衆運動に発展する可能性があるのであり、また一方で、日常性とは、普通の市民たちの生活の連続体であるが故に、僕たちの活動は、みるみるうちに市民の感覚とズレていった、と思う。極左のセクトが、互いに民衆の要求を呑み込みつつ、発展するどころか、いつしか目標を見失って、理論闘争しか出来ない脳髄の化け物となり、それは大衆とは無縁の場でのセクト間どうしの潰し合いへと突き進んでいった。見通しのない、ジリ貧の闘いだった。明日が果して存在するのかどうかも分からぬ状況だった、と思う。

小田の思想はその意味においては、足場をしっかりと生活者としての人間に据えつつ、それだからこそ、日常という平坦ではあるが、平坦故に揺るぎない市民生活のあり方を、民主主義という政治形態を土台にして、日本国憲法の平和主義を、アメリカという大国主義による他国への侵略を阻止すべく、日常性を抱え持った市民たちによる、実体のある運動として成立させたのだ。飯をまともに食いながら、テレビや新聞を読みながら、休日には家族とともに楽しみながら、それでも、そんな生活が成り立つのは、平和があってこその現実なのだ、という思想を小田は書きつづけた。小田が75歳にして息を引き取る寸前まで筆力を落とさず、手が動かなくなったときはテープに吹き込み、書けるときは、太字のモンブラン万年筆で原稿を埋めつくしていく様に、人としての尊厳すら感じた。ニューレフトなどという極左冒険主義的闘争論など、小田の筆力と活動力にあっては、殆ど子どもの抗いに過ぎなかった、と僕は思う。その意味において、僕は敢えて、自己卑下することを否定しない。

小田の平和憲法への拘りは尋常ではない。第九条こそ、日本の、いや世界中に平和をもたらす革命的な意義をもった思想なのだ、という信念は彼の生涯を貫いた揺るぎない存在だった。小田の筋金入りの平和主義思想は、市民の生活を、戦争という不条理な出来事によって、ある日唐突に破壊されてしまうことに対する、強い反措定である。アメリカという存在を、当時の僕たち極左セクトはアメリカ帝国主義と、安易にまとめて攻撃の対象にしていたが、そんなものに何の意味があったのか、といまでは心の底から思う。アメリカにも市民生活は存在し、その市民とも連帯をしていくような広がりを持った、壮大な営みが、小田の思索と行動のコアーである。ニューヨークの貿易センタービルが、旅客機をハイジャックしたテロリストたちによって、崩れさっていく様を観たとき、小田は、日本の特攻隊の攻撃そのものだ、と叫んだと言う。これまでの日常と何ら変わりなく仕事をしていたビル内の人々は、突然の戦争状況に巻き込まれ、命を奪われた。これはアメリカが日本に対する大阪・東京へのB29型戦闘機から、数えきれない数の爆弾を投下し、非戦闘員である市民の大量虐殺を行使したことと同じなのだ、と彼は叫ぶ。そして広島・長崎への原爆投下も同じ非戦闘員としての市民を虐殺した残忍な行為である、とも主張した。さらにアメリカの旧態依然とした政府は、ベトナムへの介入を忘れたかのごとく、いまだに他国に介入して、その正当性を主張して憚らない。こうして殺される市民たちの死を小田は「難死」と定義づけた。アメリカの青年たちが、イラク人を殺し、イラク人による爆弾テロによって、多くのアメリカの青年兵士たちもその命を失っている。こういう「難死」を続けているアメリカ政府に、日本はいまだに擦り寄っていくのは大いなる過ちであり、アメリカ市民たちも第二のベトナムにならぬことを願っているような戦争に何故日本は協力するのか ! と小田の声は大きくなる。いや、死の床にあって、小田の声は決してかつてのような背を丸めた姿勢から絞り出すような迫力はなかったが、それでもあのテレビの特番における小田 実は、その静けさの中にさらなる凄味が加わっていたように思う。本物の思想とは、こういう迫力があるのだ、とも思う。

日本の右傾化は目を覆いたくなるほどである。エセものの御用学者たちや、底の浅い漫画家や、評論家たちが闊歩できる時代なのである。市民の暮らしは苦しくなるばかりなのに、国民健康保険も中抜け状態だ。この制度は日本のすばらしい制度であるにも関わらず、日本政府はこれすら潰しかねない。アメリカ資本の生命保険会社の宣伝が、自己責任という名の誤魔化しによって、雪崩のごとくにテレビから流れてくる。アメリカ市民すらウンザリしている旧態依然としたアメリカ政府に何故いまだに媚びへつらう、この日本政府とは一体、どういう存在なのか? と小田は鋭く問題提議をし続ける。

死の床にあっても、死後においても、小田の思索の跡を心して辿り直そうではないか ! 世のなかの流れに簡単に乗っかって先導するごとき御用学者たち、エセものの政治評論家たちこそ、小田の思想と対峙してみるとよい。今日の観想である。

○推薦図書「中流の復興」 小田 実著。生活人新書。内容は上記の僕の拙文を補ってくれる良書です。お勧めの書です。どうぞ。

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長野安晃


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