○愛の過剰について語る
人は愛のあり方について、かなりな考え違いをしているように思う。あるいは、愛の結果生み出される言動の表現の方法についても、時折起こりえないようなことが現実に起こってしまうのは、愛という思想、他者を愛することの意味についての錯誤が、誤った言動になって現実生活において現れるからである。そのことについて少し考えてみたい、と思う。
人が他者を愛するとは、どういう思想から派生している感情なのか? 僕は、こう思っている。つまり、人は、生まれながらにして、欠落感を抱えた存在である、ということである。幼い頃、両親、あるいは、その人々に代わる人たちに愛を注いでもらう。そのことによって、幼い心の欠落感は満たされる。思春期の頃、異性のことが気になって仕方がないのは、より次元の高い欠落感に直面するからだ。このあたりから他者という存在が、人の視野の中に入ってくるのである。大体において思春期の心の欠落感を埋めてくれるはずの愛は、不完全燃焼に終わる。しかし、それでよいのである。この時期、人は、愛の不全感によって、より成熟した愛のあり方を模索する道筋を歩み始めるからである。逆に、妙な成功体験を持ってしまうと、他者を愛するということの重さが抜け落ちてしまう。だから、思春期から、青年期にかけての失恋とは、苦い味が残りはするが、決して無意味な体験などではなく、人それぞれに分かち持った、裡なる不全感というものの本質が、言葉にできるかどうかは別にして、ぼんやりとした形で胸に落ちる。だから、失恋、大いに結構なのである。
さて、本題に入る。人が他者を愛する場合、言うまでもなく、愛の形は人の数だけ在るはずだが、共通点というか、本質的なあり方に気づいた人は幸いである。勿論前記した幼年期や思春期、青年期において、十分な愛を受容できなかった人は、その時点からスタートしなければならないので、苦労することになる。世の中には、この段階で、登り詰めるべき階段を間違ってしまうか、あるいは、登るべき階段から足を踏み外してしまうことも多い。そうなると見当違いの愛の表現しか思いつかないわけで、その後の実人生において、受けるべき時期に愛を受容出来なかった人々は、間違った恋愛をし、間違った結婚をし、その果てには破局が待ち受けていることになる。破局は別に何ということもないし、出直しの道筋を発見したら、やり直せるのである。しかし、不幸なことに、大人になるまでの、適度な時期に愛を受容し損なうと、破局は、単なる失敗としてしか認識出来ず、教訓にはなり得ないことがしばしば起こる。恋愛の悲劇とは、このような人々が、他者を愛そう、という深い大切な思いがありながらも、過去の破局が教訓化されていないために、形を換えた失敗を繰り返すことになる。こういう人々は、かなりパーセンテージは低いが、自分にとっての欠落感を埋めてくれるような出会いの機会を待つしかない。出会えた人は奇跡的な出会いなのだから、それを幸運と呼んでもよいし、出会えなかった人は、不幸の連鎖の中で身悶える。酷薄だが、これがリアルな姿なのである。
愛とは、その本質から言って、過剰になるべき存在である。逆に、過剰に成り得ない愛などは、愛の名に値しない。愛は過剰になり、その過剰さが生み出す姿を愛する他者に見せて、安心出来るものではなかろうか? そのとき、愛は優しさを生み出し、共感の感情を芽生えさせ、愛する他者を抱擁するかのごとく、愛せるのである。愛の過剰とは、優しさの過剰と言いなおしてもよいのであって、決して、愛する他者を傷つけたり、恐怖心を煽ったり、ストーカーまがいの行為に走るということを意味しない。こういう類の行為は愛の過剰どころか、愛の欠如が生み出した単なる独占欲かあるいは質の悪い支配欲である。このような現れ方をする愛に似た錯誤の感覚は、花が枯れ果て、朽ちていくように無残な結末を迎えることになるのは必定なのである。マスコミで毎日のように報道される、かつては愛し合ったはずの相手を死に至らしめたり、脅迫してみたり、ともかく相手にとって不利益な行為に結びつくような行為の中に、愛という深い感情や思想はまったく欠落しているはずである。
愛の過剰は、愛という存在の意義深い形である。愛を感ずればそれは過剰という思想を生み出し、その過剰という思想が、互いの愛を深化させる大切な要素ともなる。愛は過剰であるからこそ、愛と呼ぶにふさわしいのである。愛の過剰の介在しないところに、自己犠牲という観念は絶対に育ちはしない。自己犠牲とは僕の定義では、愛の過剰の最高の表現である。
今日の観想はあるいは間違っているのかも知れない。が、いま、僕が考え得る限界点であることを正直に告白して、ブログを閉じることにする。
○推薦図書「喪男[モダン]の哲学史」 本田 透著。講談社刊。愛の哲学的考察です。様々な哲学者・文学者たちをモデルにした哲学論考ですので、おもしろく読みながら教養もつく、お得な書です。お薦めします。ぜひどうぞ。
京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人は愛のあり方について、かなりな考え違いをしているように思う。あるいは、愛の結果生み出される言動の表現の方法についても、時折起こりえないようなことが現実に起こってしまうのは、愛という思想、他者を愛することの意味についての錯誤が、誤った言動になって現実生活において現れるからである。そのことについて少し考えてみたい、と思う。
人が他者を愛するとは、どういう思想から派生している感情なのか? 僕は、こう思っている。つまり、人は、生まれながらにして、欠落感を抱えた存在である、ということである。幼い頃、両親、あるいは、その人々に代わる人たちに愛を注いでもらう。そのことによって、幼い心の欠落感は満たされる。思春期の頃、異性のことが気になって仕方がないのは、より次元の高い欠落感に直面するからだ。このあたりから他者という存在が、人の視野の中に入ってくるのである。大体において思春期の心の欠落感を埋めてくれるはずの愛は、不完全燃焼に終わる。しかし、それでよいのである。この時期、人は、愛の不全感によって、より成熟した愛のあり方を模索する道筋を歩み始めるからである。逆に、妙な成功体験を持ってしまうと、他者を愛するということの重さが抜け落ちてしまう。だから、思春期から、青年期にかけての失恋とは、苦い味が残りはするが、決して無意味な体験などではなく、人それぞれに分かち持った、裡なる不全感というものの本質が、言葉にできるかどうかは別にして、ぼんやりとした形で胸に落ちる。だから、失恋、大いに結構なのである。
さて、本題に入る。人が他者を愛する場合、言うまでもなく、愛の形は人の数だけ在るはずだが、共通点というか、本質的なあり方に気づいた人は幸いである。勿論前記した幼年期や思春期、青年期において、十分な愛を受容できなかった人は、その時点からスタートしなければならないので、苦労することになる。世の中には、この段階で、登り詰めるべき階段を間違ってしまうか、あるいは、登るべき階段から足を踏み外してしまうことも多い。そうなると見当違いの愛の表現しか思いつかないわけで、その後の実人生において、受けるべき時期に愛を受容出来なかった人々は、間違った恋愛をし、間違った結婚をし、その果てには破局が待ち受けていることになる。破局は別に何ということもないし、出直しの道筋を発見したら、やり直せるのである。しかし、不幸なことに、大人になるまでの、適度な時期に愛を受容し損なうと、破局は、単なる失敗としてしか認識出来ず、教訓にはなり得ないことがしばしば起こる。恋愛の悲劇とは、このような人々が、他者を愛そう、という深い大切な思いがありながらも、過去の破局が教訓化されていないために、形を換えた失敗を繰り返すことになる。こういう人々は、かなりパーセンテージは低いが、自分にとっての欠落感を埋めてくれるような出会いの機会を待つしかない。出会えた人は奇跡的な出会いなのだから、それを幸運と呼んでもよいし、出会えなかった人は、不幸の連鎖の中で身悶える。酷薄だが、これがリアルな姿なのである。
愛とは、その本質から言って、過剰になるべき存在である。逆に、過剰に成り得ない愛などは、愛の名に値しない。愛は過剰になり、その過剰さが生み出す姿を愛する他者に見せて、安心出来るものではなかろうか? そのとき、愛は優しさを生み出し、共感の感情を芽生えさせ、愛する他者を抱擁するかのごとく、愛せるのである。愛の過剰とは、優しさの過剰と言いなおしてもよいのであって、決して、愛する他者を傷つけたり、恐怖心を煽ったり、ストーカーまがいの行為に走るということを意味しない。こういう類の行為は愛の過剰どころか、愛の欠如が生み出した単なる独占欲かあるいは質の悪い支配欲である。このような現れ方をする愛に似た錯誤の感覚は、花が枯れ果て、朽ちていくように無残な結末を迎えることになるのは必定なのである。マスコミで毎日のように報道される、かつては愛し合ったはずの相手を死に至らしめたり、脅迫してみたり、ともかく相手にとって不利益な行為に結びつくような行為の中に、愛という深い感情や思想はまったく欠落しているはずである。
愛の過剰は、愛という存在の意義深い形である。愛を感ずればそれは過剰という思想を生み出し、その過剰という思想が、互いの愛を深化させる大切な要素ともなる。愛は過剰であるからこそ、愛と呼ぶにふさわしいのである。愛の過剰の介在しないところに、自己犠牲という観念は絶対に育ちはしない。自己犠牲とは僕の定義では、愛の過剰の最高の表現である。
今日の観想はあるいは間違っているのかも知れない。が、いま、僕が考え得る限界点であることを正直に告白して、ブログを閉じることにする。
○推薦図書「喪男[モダン]の哲学史」 本田 透著。講談社刊。愛の哲学的考察です。様々な哲学者・文学者たちをモデルにした哲学論考ですので、おもしろく読みながら教養もつく、お得な書です。お薦めします。ぜひどうぞ。
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