ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

信じるということの意味について考える

2009-01-04 23:28:04 | 観想
○信じるということの意味について考える

信じるという言葉は、舌触りがよいだけに、人々が好んで使う言葉の一つである。好感を持った人々に対して、恋人に対して、あるいは夫、妻に対して、信じているよ、信じているわ、という言葉はまるで輪廻のように世界中で囁かれているのではなかろうか。西欧の文化の中では、信じるという言葉は、男女の間で取り交わされる場合、しばしば愛している、という言葉とすり替わる。しかし、その内実は同じものと考えてよい、と思う。

物事がうまく進行しているときは、信じるという言葉の内実にそれほどの思い入れもなく、ごく自然な日常会話が成立しているだろう。が、いざ、信じていたはずの人間のいずれか一方にでも、心の隙間に不信という暗黒の言葉が、信じるという概念性を上回る程の勢いで起こった、その瞬間から人間の悲劇がはじまる。歴史上の、揺るぎないと思われた独裁者や権力者たちが失脚していくはじまりこそ、他者を信じられなくなる瞬間が心をよぎり始めた時である。果たして彼らは、猜疑心の虜となり、信じるべき人々、特に正しきことを箴言し得る人々を遠ざけ、場合によっては命さえ奪う。かつて物申す人々の力を信じてこそ手中に出来た権力を、いや、そのおおもとのファクターになっていたはずの他者への信頼感を惜しげもなく手離してしまう。残るのは当然のようにイエスマンだけのとりまき連中になることは必然である。かくして、時の権勢を誇った権力者たちはあえなく自ら墓穴を掘り、歴史の大きなうねりの中に姿を消していく。同じことがたぶん現代においても繰り返し、繰り返し起こっているはずである。万巻の書物を読むくらいならば、シェイクスピアの「マクベス」を心を込めて読んだ方がどれほど深き知恵が得られるかは、説明するまでもないのではなかろうか。サラリーマン諸氏が安手の時代劇物の小説を、たぶん自分の会社の派閥や人間関係に置き換えて、その書から生き残るヒントを得ようとするのはよく理解できるが、もし、そうであれば、どうぞ「マクベス」という薄っぺらな戯曲を読まれたし、と心から思う。

歴史上の変遷が、個としての人間関係と無縁であるはずがない。恋人どうしや、夫婦の絆や、親子の愛のありかたの中で、信じるという観念が不信にすり変わるとき、人間の不幸がはじまる。信頼関係に歪みが生じたとき、たぶん当事者たちにとっては、長い年月と時間をかけて構築したはずの、揺るぎなく見えた堅牢なる存在物は、見事にガラガラと音を立てて崩壊していくはずである。たぶん、人間の不幸の最も大きな不幸の原因とは、信じていたはずの他者を、信じることが出来なくなるという不幸に尽きるのではなかろうか。またこれこそが、人間を長きに渡って支配してきた人類の歴史の退歩の病巣でもある。いったい、人はこのような退歩からいかにすれば自由になれるのだろうか?

恐らく間違えてはいないと思うが、他者を信じるという行為の土台を形成している心的概念とは、端的に言ってしまえば、勇気である。人を信じられない人には勇気が確実に欠落している。あるいは、欠落すべき道程を辿り、不幸な結末へ突っ走る。結果は無残な敗退、あるいは死あるのみだ。信じ切れると思った他者に対して、心を丸裸に出来る勇気があってこその,信頼関係の深化が在り得るのではないか?その意味において、保身とは勇気と正反対の概念である。保身が結局は文字通りの保身に繋がらないのは、心の底に臆病で見苦しいほどの疑惑が渦巻いているからに他ならない。疑惑は、決して人を幸福に導きはしない。いっとき保身し得たかに見える現象が現れても、それは、荒れ果てた砂漠に気まぐれのように立ち現れる蜃気楼のごときものに過ぎない。蜃気楼は実体のないものであるがゆえに、疑惑に導かれた保身も、蜃気楼のようにあえなくその姿を消す宿命を背負っているのは当然であろう。

人がこの世界、この21世紀という足場の崩れかけた世界で生き抜くための大切なものとは、泡銭でもなければ、保身のためのマネーゲームでもなければ、世間的な地位などでもない。そんなものはいずれ確実に手元から零れおちる。寄る辺ない世界だからこそ、信じる勇気、心を丸裸にして憚らぬ心構えにしか、生き抜くエナジーなど湧き出て来るはずがないではないか?みなさん、そうではありませんか?

○推薦図書「ボヴァリー夫人」フローベール著。新潮文庫。田舎医者の妻エマが、凡庸な夫との単調極まる生活に死と同義語であるかのごとくに退屈し、情熱に駆られてついに身を滅ぼしていく物語ですが、再読していて思うのですが、エマの生きかたの中で、自分に正直であるのは身を救う大切な要素だと感じますが、エマは情熱の虜になり果てる過程で、自己に対する信頼感を喪失していきます。この書が悲劇の様相を呈しているのは、自分自身を信じ切れない主人公の悲劇性ゆえであるとも考えられます。お正月のこの時期に、かつて読破した名作をぜひどうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた 長野安晃


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