ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

国技とか、日本の伝統だとか言っているけれどなあ・・・

2010-02-04 02:27:46 | Weblog
 日本相撲協会の理事会の運営方針などは、小学生の学級会や、その上部の児童会のそれと比較しても、レベルが低い。選挙の意味すら分かっていないわけで、今回の理事選出にあたる騒動で、貴乃花親方に投票した若手親方の一人が、理事会方針に造反したとのことで、村八分状態の末、とうとう廃業するなどと言いだした。いや、そのように言わざるを得なかったのか。

昨今相撲の番付など見ることがなかったが、久々にじっくりと目を通して驚いた。両横綱はモンゴル人だし、関取連中の中には、モンゴル人をはじめ、東ヨーロッパからの出稼ぎ力士の何と多いこと。いまや、彼ら、日本相撲協議会が言うところの、伝統とはいったい何をさすのだろうか?育ってきた環境も言語も日本人とはまるで違う人間が東西両横綱になる時代なのである。いくら彼らに伝統と称して、これまでの慣習を学ばせたところで、それは表層的には模倣することも出来るだろうが、外国人力士たちにとっては、やはり異国への出稼ぎ感覚、それも成功すれば、横綱にでもなれる可能性を秘めているのだから、一攫千金も狙えるビッグチャンスというように理解する方が正当なのではないか。日本相撲協会や、理事者たちは、すでに色褪せ、その実体さえ危うくなった空想的概念―品格とやらがお好きであるらしい。その意味においては、同じ横綱といえど、彼らには、おとなしい白鵬の方がお好みだろう。

 貴乃花親方が、理事に当選したのは結構なことだが、相撲を支える裏方さんたちの待遇改善を目指すというのであれば、いま、廃業に追い込まれようとしている、自分を支えてくれた人間を見殺しにしては男がすたるのではなかろうか。まずは、職を賭して、廃業させないためのあらゆる努力を惜しまないことではないか?これが出来ないというなら、到底裏方さんたちの待遇改善など出来るはずがないではないか。

 日本の大相撲を日本の国技と定めているのなら、今回の理事選出にともなって、あらかじめ票の割り振りなどしている体質がいかに民主主義の本質である選挙とそぐわないことであるのかを、国会の議論に上げて、日本相撲協会に対して適切な指導を入れるべきではないのか。一人の若き将来ある親方の廃業という結末を相撲協会に認めさせてはならない、と僕は思う。彼の行為を造反だと言うなら、造反有理という毛沢東の思想にまで立ちもどるべきなのである。日本相撲協会のあり方、大きくは相撲界のあり方が旧態依然とした体質であるなら、もはや国技という枠組みを取っ払えばよいのである。過去の力士たちの歴史を手繰ってみても、食えないという理由で待遇改善を求めて、何度も立て籠り事件を起している。その度にトカゲの尻尾切りのような犠牲者を出しては、相撲の歴史を繕ってきたわけだから、ここいらで、抜本的な改革をすればよいのではなかろうか。政府が諮問機関を創ればよい。これまでのような相撲協会寄りのアホな輩を排除して、新たな視点から相撲のあり方を論議出来る人選をして改革をするべきときなのだ。相撲を野球と同様に、スポーツ競技という規定にしてもよいではないか。日本相撲協会の理事者たちが相撲取りばかりで占められているのではなく、外部からの選出委員も含めた組織であるべきだろう。

 競技としては、物の考え方、組織のあり方において、最右翼に位置する日本相撲協会の騒動に、毛沢東の指導理念である造反有理こそが、有効な解決の糸口を与える可能性が見えてきたのは、歴史の皮肉というべきか。

幕末から明治維新という大革命を俯瞰してみると、三島由紀夫の存在理由が僕の中でさらに希薄になった

2010-02-03 01:07:52 | Weblog
 「龍馬伝」はかなりな人気番組になりつつあるようで、龍馬役の福山雅治も清々しい青年像をよく演じていて、坂本龍馬というか、福山雅治のイメージの創りだす純朴さと情熱で、しばしば単純な僕などは泣かされる始末なのである。このドラマは楽しめばよいと思っているが、それにしても、僕自身の、この時代に関する評価と知識があまりにも狭隘であり、西欧列国から開国を迫られ、不平等条約に甘んじながらも、日本の旧藩主・藩士たちが、複雑で、かつ重層的な明治革命を遂行したことの学習を、ずっとやっていたら、これまで勤皇(尊王)派と佐幕派という単純な二層構造としてしか龍馬が駆け抜けた時代を捉えていなかった自分の浅はかさに、呆れるばかりだったのである。呆れることのついでに、恥を忍んで書き置くと、近江屋で暗殺されたのが、海援隊の隊長であった坂本龍馬であることは知ってはいたが、陸援隊の隊長の中岡慎太郎まで暗殺されたことは今回の学習で初めて知った。アホか、と思う。大政奉還の立役者としての、後藤象二郎の存在さえ、僕の記憶の中では希薄になっていたほどなのである。ひと言で明治革命といっても、各藩の中でも、藩主と藩士の対立があり、またその中でも、思想の違いがあり、大きな観点で、明治革命を、勤皇(尊王)派と佐幕派との二大勢力の闘争などとは到底纏め切れない、重層的な旧勢力の破壊と新勢力の構築を、自分なりにどのように整理したものか、悩みつつも、ずいぶんと深い学習を強いられた。

 明治革命を遂行した若き天才たちの運動論はダイナミズムに満ち溢れたものである。彼ら天才たちは、勤皇(尊王)派にも佐幕派にも勿論いたわけで、日本が、当時の他のアジア諸国が西欧列国の植民地になっていくのに、自立を守り抜けたのは、彼ら、若き天才たちが命を張って、融合と離反を繰り返しながらも、明治維新をダイナミックな革命によって、日本の再構築に成功したからであって、これは他国の大きな革命運動と比較しても決して見劣りのするものではない。

 前置きが長くなった。さて唐突かも知れないが、今日は三島由紀夫という男がサムライを演じようとして、サムライになり得なかった理由を書きたいのである。三島の作品世界といい、真似ごととしての、政治組織、「楯の会」といい、自己のボディビルと剣道による体の鍛錬といい、自衛隊に楯の会を参加させたことといい、最期は楯の会の数人と当時の市ヶ谷駐屯所に乗り込み、自衛隊員に対して、天皇に主権を奪取させるための蜂起を促すという、時代錯誤の行動の果ての、計算づくの切腹劇は、あまりにも稚拙な自己陶酔とナルシシズムが見え透いていて、以前にもまして、僕は、三島が嫌いになった。三島の作品世界に、日本的な美の世界を重ねる人もいるのだろうが、所詮三島の美意識とは、明治革命に巻き起こった政治的ダイナミズムや、思想の重層性のカケラもない、あくまで、静的な美意識という代物である。静的美意識の根底をなす思想とは、三島由紀夫という、頭デッカチの、手前勝手な過去への、サムライ社会への疑似的回帰に過ぎない。それを支えているのは、三島の作品世界における美文ということを認めてもよいが、その美文の中に動的なダイナミズムなど、目を皿のようにして探しても見当たらない。当然だろう。何故なら、三島という男は、もともと閉塞した世界の中で、静的な美文を紡ぎ出すことによってしか、自己実現が出来なかったのであるからだ。三島の狭隘な自己実現の完成は、疑似的な革命への放棄という無様な行為の果ての、無価値な腹切りだった。日本的な幽玄な美を求めてやまなかった三島の自宅が、白亜の西欧風の安づくりのロココ風宮殿を真似てつくったのは、ある意味、三島の思想がよく現れている。三島の自宅が西欧風なのは、明治政府が卑屈に鹿鳴館時代を送ったのと同じ種の、昭和という時代への卑屈さの表現ではなかろうか。果たして三島自身がそのことを自覚していたかどうかは疑わしいが。まあ、いまは、三島由紀夫を論じるよりも、江戸から明治への移行時期に、命がけで新たな未来を構築しようとした英雄といおうか、傑出した天才たちといおうか、彼らの営為に敬服することの方が意味があると僕は思うのである。今日の観想とする。

教育の原点とは、学ぶ人間に働く歓びを感得せしめることではなかろうか

2010-02-03 01:04:59 | 学校教育
○教育の原点とは、学ぶ人間に働く歓びを感得せしめることではなかろうか

人は、働くときに、ただ生活のためだけに自分の時間を切り売りしているなどという思想は、大昔のマルクス経済理論の土台を支えるものでした。ここから、労働者階級の一党独裁型の政治思想に行き着くまでには、考え方においては、それほどの距離はありません。マルクスの膨大な思想体系の中には、現代に通用するものもたくさんありますが、彼の代表的著書と言っても過言ではない「資本論」における経済理論、及びマルクスの労働観に関しては、あまり有用な要素は見当たりません。単直な図式化ですので、マルクス理論に詳しい方々のヒンシュクを買うかも知れませんが、敢えてご批判を覚悟でマルクス理論の素描を行いますと、労働者が自分の労働に意味を見い出せないのは、搾取される側に置かれているからであり、搾取する側のブルジョワジーを打倒し、その富を再配分し、労働者主体の政治・経済機構を創り出せば、そこに働く意味と重要性が見えてくる、と云うものでした。しかし、いまさらながらですが、東西冷戦時代が終焉し、東側諸国に対するユートピア的な思い入れに、何らの意味もないことが明らかになりました。労働者の一党独裁の中から、新たなヒエラルキーが生まれ、差別化は再生産され、その中でも何より問題であるのは、厳しい思想統制がなされてきたという現実です。現代における共産圏の政治においても、一部の政治エリートだけが甘い汁を吸っているのを見れば、人間の限界性と愚かさが透けて見えてきます。

だからと言って、東西冷戦の終焉は、資本主義の一方的な勝利に終わったなどと主張する御用学者の意見にくみするわけではありません。なりふり構わぬ資本家たちの自己防衛には辟易してしまいますし、かつての日本における緩やかな社会主義的要素を含み込んだ資本主義も、アメリカの影響下、労働者にとっては斬り捨て御免の時代になり果てました。こんな時代に夢を持つことの方が難しいのですが、大きな視点から云えば、やはり日本の土台は、教育立国という理想の上に立った、政治や経済のあり方を再構築することを抜きにしては語れないでしょう。悪い時代を変革していけるのは、これからの社会の中核を担う人々のエネルギーです。若い人々が働く歓びを感じる社会にしなければなりません。リストラの嵐が吹き荒れるような、斬り捨て御免の殺伐とした社会を変えていく必要があります。そのための教育なのです。

残念なことに、教育にとって最も重要な任務を背負っているはずの、教える側の学校の先生方が、過剰な管理主義下で、心腐らせています。そのために、先生方が精神的な病のために、休職に追いやられるケースが後を絶ちません。学校社会は、その意味においてかなり不健全な空気に満ちています。公立学校で言えば、教育委員会、私立学校で言えば、各々学校の理事会が、各学校を指導・統括している部署です。おおもとは、当然文部科学省です。学校社会が精神的に不健全であるというのは、教える側の先生方の組織のあり方にもよるでしょう。真面目で教育熱心で、ご自身の教科指導や学級経営に関する研究を一生懸命にやる先生は出世出来ないシステムになってしまっています。学校の指導者になろうとすれば、教育力量など必要ないと言っても過言ではありません。多少極端な言い方かも知れませんが、学校社会で指導者(という名に値しない、単なる出世ですね)になろうとすれば、最も大切な決め手は、管理職者のご機嫌伺いをいかにするか、ということで、殆ど教頭任命試験や校長任命試験を受けさせてもらえるかどうかが決まります。私学で言えば、理事会の覚えめでたき人が、管理職に任命されます。だから、教育の指導者として、学校管理職者がいるのではなくて、単なる管理主義的な野心を持った人間が学校の管理職者になるというのが、これまでの図式です。これでは学校にとって、最も重要な課題、すなわち、教育力量をいかに高めるかという視点で学校運営されていないわけですから、生徒がやる気をなくしたり、不登校になるのも理解出来るわけです。不登校を、生徒間だけの人間関係論にすりかえてしまうと、事の本質がまったく見えなくなります。生徒相互間の関係性が悪くなるのも、もとはと言えば、学力保障という課題が、教師の中で実践化されにくいからです。多くの指導者がなっていないからなのです。昨今は、学校以外でお仕事をされてきた人たちが、校長に任命される時代になりましたが、任命権者である教育委員会自体が、そもそも学校社会以上に実力ある人がその長になれる組織ではありませんから、いくら外部の風を入れようとしてもそれは見せかけにすぎないわけで、結局は外部の風を吹き込むどころか、組織の中に組み込まれてしまい、実力が発揮出来ないというのが現状ではないでしょうか。

京都カウンセリングルーム
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃

政府の取組の姿勢はよろしい。しかし、貧困の意味が分かっていない。マスコミはさらなり、だからアブナイ

2010-02-01 13:53:14 | Weblog
 失業者向け融資の改善が見られたと新聞報道されていたが、そもそも報道記事にあるようなことが、本質的な改善と言えるのかどうか、疑わしい。さらに云うと自民党政権下におけるこの手の融資などクソの役にも立たない代物だ。自民党という政党が、どこを向いた政党なのかがよく分かる。とは言え、絶望的なことだが、いまの日本に、ほんとうの国民のための政党など皆無である。致し方ないので、その時々で投票の相手を変える。そういう人々が多いのではないか。選挙自体を放棄している人も数多いが、こういう人は、全体主義的な国に行って、確実だが、お涙頂戴式の金の給付を受けるのが妥当だろう。何とか食いつないでいくことは出来るだろうから。

 さて、自民党政権下の失業者向けの生活支援資金は、連帯保証人がなければその援助さえ受けることが出来なかったわけである。政治家は甘い汁を常に啜っているから、こういう案しか出て来ない。何らかの理由で失業に追い込まれた人間に、簡単に連帯保証人などになってくれる人がいると思う方がどうかしている。政治家だって、選挙に敗北すれば、タダの人だと常日頃言っているではないか。先生と呼ばれていた人間たちにこそ裏切られるだろうに。ましてや庶民が失職して、生活困窮に陥ったら、どういうことになるのかくらいの想像がつかんのか。民主党政権になっても、考え方の基本は同じである。改善と評価して諸手を挙げて喜べないのは、やはり貸与という形式を崩さないからである。さらに、連帯保証人がいなければ、1.5%にしろ利子までつく。連帯保証人がいれば、無利子だというが、考え方がまるで逆ではなかろうか。連帯保証人がいないということは、それだけ厳しい状況に追い込まれ、社会的信用まで失っている人々だろうに。その人たちに利子をつけて貸し付けるなどというのは、やはりマジかに迫った選挙政策と言われても仕方がない。

 結論から言うと、この種の支援金は、貸与ではなく、給付でなければ意味がないのである。貸与という形式をとれば、利子があるなしに関わらず、返還させなくてはならない。この就職難の時代に生活困窮に陥ってしてしまった人間に貸し付けた金など、完璧に資金回収出来ると考える方がどうかしている。援助支援金が指定期日までに返還されず、不良債権化するのは当然で、それが焦げ付くのは必然である。こういう事態になれば、野党に下った自民党などは鬼の首でも取ったかのように、政府の無策だと批判するだろう。己の無策ぶりを棚に上げたままに。マスコミだって、大騒ぎだ。年越しの避難村から、就職活動資金と称して2万円給付したら、500人いた滞在者のうち200人が2万円を持ってフケた。あたりまえではないか!ホームレスになった人々は、社会という舞台から降りた人々だ。社会通念などという甘ちょろい観念など通用しない。目の前の2万円は、酒に消え、博打に消え、酒に消える。こういう施策で救えるのは、ボーダーラインにいる少数の人々だけだ。2万ごときの支給は、持ち逃げもありという覚悟がなければ、むしろやるな。マスコミは、国民の血税がこんなことに費やされるなどと、いまさらのように分かったように報道するな。国民の中に、言われなき差別を増幅させる。中途半端なことをやって、裏切られたら生活困窮に陥った人々を人間扱いしないような心根が、第2、第3のヒトラーを出現させる。こういう精神構造が、悪しき絶対者への希求の気分を掻き立てる。朝日新聞で論評しているある学者さんは、こういう貸与は不良債権を生むのだから、給付が必要だ、ではなくて、給付が望ましい、と言っている。よりマシ論で言えば、合格だが、こういう学者さんは、後がいかん。曰く、「政府は就労の場を確保する仕組みや雇用保険の拡充など、抜本的な雇用・貧困政策に取り組むべきだ」だと。アホいうな。抜本的な政策があれば、あるいは、人間の精神が極貧に陥ったときに、どのように変質するか、食い詰めたこともない人間が、分かったようにエセ理論を振り回すから、差別の構造はいつまでも残ることになるのである。

 政府の誰それからお呼びがかかって、首相の諮問委員などという資格を与えられなければ、日本の知識人は何も言えないのか、はたまた何も考えつかないのか?抜本的な政策を考えつくのであれば、自分の責任において、政府に対して物申せばよろしい。試案をつくり、全国の知識人が政府に投げかければよろしい。それが出来ないなら、生活困窮者は捨ておくことだ。彼らが100万人単位で野たれ死んだら、多くの無関心な人々の思想にも確実に変化が起こる。そのときこそが勝負だし、人間が試されるのである。日本がまだ高度成長期に、食い詰めて水しか飲めなんだ人間の観想である。これくらいのことは愚痴る資格はあるだろう。