With the I Ching

易経や四柱推命、暦、占星術などの運命学の記事がメインです。

自分自身のデフラグ中・・・

2010-01-15 22:58:32 | 占い全般のコラム


今日は新月の日、つまり旧暦一日です。
日本の場合、今日から来月のバレンタインの前日までが旧暦12月になります。
ちなみに、このブログの「gooひとこと」で毎月の日本の月運を掲載していますので、ご参考までに。(元ネタはこの日の記事)

さてさて、今日は(今日も?)雑談です。いろんな話をごちゃ混ぜに書きます。

まず、最初に。
ようやく四柱推命白帯のバージョンアップも一区切りが付いた感じなので、これから易に帰ろうと思っています。

でも、だいぶブランクができてしまったので(ただの怠慢ともいう)、ちょっと感覚が失われがちです。それで今、なんとか意識をチューニングすべく易の本を読んだり、自分の書いた文章を流し読みしたりしています。

ただ一方で、易の思考というか勘を取り戻すのとは別に、自分自身のモチベーションも執筆には重要なんだと改めて実感している最中です。

それを養うのは易の本だけ読んでいても当然ダメで、違うジャンルの本を読んだり、執筆に集中するための音楽を選んだり、気持ちを切り替えるためのキッカケを欲したり…と、何かしら自分で自分を盛り上げる必要性を痛感。今日、新月を迎えた、というのも一つのキッカケです。

文章を書くという作業は、その時の自分の精神レベルが確実に反映されるものなので、執筆時の意識の覚醒水準が重要です。高い水準が維持できていれば問題ないのですが、低いと文章の内容や質に悪影響を与えます。読者に不快感を感じさせることや自ら墓穴を掘るようなことを書いてしまったり、体験に即さない不確かな知識に拘泥したり…と残念な結果を招いてしまいます。

易に対する思いや向学心は常にありますが、どうしようもない文章を書かずに済む程度のレベルにまで自分を持っていくのは、なかなか大変です。僕にとって、基本的に文章を書くことは内省の手段であり、また同時に自己表現の手段なのですが、同時にそれは自分が抱える葛藤や悩みや苦しみとのせめぎ合いでもあり、内的な闘いなのです。

でも、最近ちょっと気が付いてきたことがあります(これには四柱推命を研究してきたことも影響しているのですが)。

それは、「僕が」書こうとすると取るに足らないような内容にしかならなくて、特にこれといった読者からの反応も得られず、単なる「書いた~」という自己満足として終わる、ということ。

その一方で、創造性というかインスピレーションに導かれるようにカタタタタッとキーが打てた時は案外に好意的なコメントが寄せられたりします。それは結局、自分という卑小な自己<エゴ>に囚われているとダメで、より世界に対して浸透性のある、高次元的な意思の媒介になるような感じでいれば上手くいく、ということなのかなーと。

別にチャネラーではありませんが、これってもしかしたら印星の強さが影響しているのかもしれないと思っています。
四柱推命的には僕は、天干に土と火しかなく、いわゆる火炎土燥的な命式です(通説的に言われている条件にぴったり合うわけじゃないですが)。で、天干のみを透干の要素とするならば、出生時の命式は自星と印星だけ。「白帯」的には93%くらいの過旺になっています。(蔵干も含めると他の行が加わって70%くらいにまで落ちます)

もっとも、身旺身弱度は時期によって変動します。僕の場合、火土以外の行運が巡れば五行の配分は均されます。
特に今は土(自星)の剋(分?制?)関係の水(財星)が興隆している時なので、身旺度はグッと下がって半分程度になっています。このせいなのか分かりませんが、本来が過旺の身とは到底思えず、本当に天干のみで見る方法が正しいのか、ちょっと半信半疑…。

それはともかく、印星あっての自分なので、下手に我を表出させるよりも、印の力を適切に活用するほうが得策なのかも、という気がするわけです。かつては誰かの思想とか考え方などに傾倒(信じる)傾向があったのですが、一度それで酷い目を見たので、今は自然とそうしたことはしないように、また執着しないように気をつけるようになっています。

その代わり、宇宙の叡智のような、自分という個人の思惑を超えた、より大きな流れからもたらされる直観(創造性)に意識を向けるようになりました。実際、そうしたものにリンクしている感覚を持ちながら何かをしている時は(執筆も含めて)、自然と喜びや高揚感が出てくるので、カラダ的にも精神的にもそれほど疲労しません。

そういえば、「印によって補強されている人は隠者や僧に多い」みたいないことが書かれていたりしますが、自分に限れば、あながち間違ってないかも知れません。考えてみれば、出家僧は在家者からの布施に依拠しているわけで、支えてくれる人々がいなければ僧として存在し続けることはできないのです。

これを都市生活者に置き換えれば、親や支援者などに依存する性質は少なからずあるのかも。あるいは衣食住などの物質的な事柄でなくて、知識やアイデアといった情報源となることもあるでしょう。自身の主張とするものは、実は誰かの受け売りとか借り物だったりするかもしれません。色んな影響を受けて、それが血肉になっていくのは誰しもそうだと思うけど、特にその傾向が強いのでは。紫微斗数で言う命無星曜格のような感じ。(というか、実際に僕はそれなのだけれど

命無星曜の人は、その対宮の遷移宮が命宮の代わりをするとされています。(8割の力量なんだとか)

これ、僕の場合は遷移宮=身宮(後天運を司るとされる)に当たるので、これからの人生でかなり比重が大きそうです。入宮している星は旺の太陽星と廟の巨門星などで、基本的には地元に居るよりは外地へ出て行った方が縁起が良いみたい。身宮は30歳頃以降からだそうなので、もう遷移宮の波はそこまで迫っているのかなぁ、なんて考えています。

でも仮にそうだとしても、その前に随分とお世話になった家族(特に親)や地元に恩返ししたいなー。

僕は昔から地元が嫌いで、二度三度と出て行ったり帰ってきたりしてきたけど、この頃は少し考え方が変わってきました。今でも相変わらず地元は息苦しくて嫌だから、結果的にココから遠くへ離れていくだろうけど、それでも最終的には故郷に何かしら貢献できたらいいなと思う。そう感じるのは、ただの嫌悪感や衝動性から、もう少し建設的な方向に意識が動いてきたからなのかもしれない。

ともかく、新しい大運を迎えて(まだ20代と同じく財星の行運なので基本的な流れは変わらないんですが)、徐々に自分自身の気持ちも含め、外的な状況も変化への兆しを見せ始めているようです。

それが良い方に向かうにせよ、苦しさを味わうものになるにせよ、その後の人生にとって有意義な経験となる時期であって欲しいと思っています。また、そうなるように自分をもっていけたらいいなと思う。


今日は、本当に取り留めのない内容でしたね

「自分自身の、自分自身による、自分自身のための確認作業」という感じでした。
文体もかなりラフですね。

 



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