◎四柱推命
今度は東洋の視点で見てみることにします。まずは四柱八字から。
はじめに、気になっている問題を挙げておくと、日本での泰山流の蔵干表が中国、ひいては世界(極地方や赤道直下を除いて)でも通用するのか、という点。これは、今後、海外の人の研究をしていく中で詰めていかなければならない課題ですが、とりあえず現時点では変更していません。
さて、前回の高島嘉右衛門さんの時は、蔵干を含めても大勢はそれほど違わなかったので比較しませんでしたが、孔子の場合は、天干のみを命式の五行とするか、あるいは蔵干も含めるかでかなり変わってくるため、両方用意しました。
まず天干のみの場合ですが、こちらはいわゆる従旺格的なタイプになります。
日主(庚)の金が4分の3を占めており活発です。一応、時柱に丙があって火の官星が幾らかあるのですが、そもそも根も弱いし、大運を見渡しても燻っている感があって火は隆盛にはなりません。若い頃(ちょうど占星術で言う金星期辺り)に影響が出そうだという内訳。
孔子は紀元前479年(-478年)の満72歳で亡くなっているわけですが、天干のみのタイプで見ると、その時期(64~74歳)から食傷運に入っており、自星のエネルギーを消耗する格好になっていることが一目瞭然です。
これが若い頃や中年期にあったならば対外的な活動の幅として生かされたのかもしれませんが、晩年、それも14年の長きに渡る放浪生活の疲れだとか、長編史書の編集作業、加えて身近な人間(息子や弟子達)の相次ぐ死に直面したことにより、精神的にも肉体的にも疲弊されたのだと思います。
次いで、蔵干も含めるタイプを見てみます。
こちらの場合は、時柱の丙(偏官)だけでなく、日柱と時柱の蔵干にある二つの癸(傷官)も力量配分にそこそこ関与してきます。そのために、自星の配分は65%ほどに落ち、特に印の支援もないため身旺というほどの身旺でもなくなってきます(「白帯」的には中強)。
調和性や極端度も目を見張るほどのものではなくなり、大運や年運に応じて、その都度、程度が変動するという形。
基本的に金は強く、晩年に至るまでどの行にも凌駕されることはありませんが、64歳からの10年間は金と水が逼迫しており、唯一、力量関係に転覆がおきそうな配分になっています。相対的な身旺身弱度も50%を切るまでに。出生時の状態からすれば20%近く低下しているわけですから、これは相当に自分をすり減らすような印象です。
自星も強まるという土台があって食傷星も強くなるというのであれば、気力も継続するのでしょうけど、これではさすがに辛かったのではないか、と想像してしまいます。でも、そこはやはり孔子というべきか。自身のなすべきことをしっかりと果たされています。
なお、気になるのは乙‐庚の干合です。月干の乙が年干と日干の庚と干合する。
その上、月支は酉の本気。もしかして、これは合化ってやつ!? しかも争合(妬合)!?
でも、どう処理していいのか分からないので、このソフトでは干合による五行の変化を勘案せずに、ごく普通に力量計算させています。
ところで、栄枯盛衰グラフについては、どっちのタイプを出しても同じです。
これに関しては、まだまだ事例研究して煮詰めていかなくてはならないものだし、そもそも五行の状態という個人差を反映していないという問題点もあるので、全体的な信頼率は7割あるかどうかだと考えてください。大枠的な概観には使えるでしょうケド。
十二運で盛衰を読むのは初心者の方法で、その上あまり当たらないというのはよく言われています。でも、それはたぶん大運の10年を一元的に読んでいるからではないでしょうか。僕の方法がベストとは言いませんが、世運と絡め、さらに5年事に区切るやり方ならば複合的に扱うことができるので、より細かな変動に対処できます。今までの伝統的な読み方を全てと思わずに、より緻密に読み解くための新しい試みを加えていくべきだと僕は考えます。
年運の五行力量変化グラフもUPします。
せっかくですので、参考までに孔子の生涯を駆け足で綴っていきます。
幼少期は3歳にして早くに父を喪い、母も17歳(諸説あり)で病死。母親と父親とは野合(正規の婚姻ではない)だったそうで、母親はそのことを息子に告げるのを忌んでいたそうです。伝によれば、幼少期の孔子(孔丘)は、関わりのあった祭礼の人間を真似てか、祭器などを並べたり儀礼のようなことをしていたとか。(月のサビアンを思い起こす・・・)
孔子自身は15歳で学問の道に進むことを決意しているわけですが、貧しかったゆえに郷校(官吏のための学校のようなもの)に通うことはできず、仕官の話を聞きつけて挑むも陽虎という役人に追い返されてしまいます。その後、19歳頃に結婚し、翌年に息子(鯉:伯魚)を授かります。そして20歳の時、生活のために昌平郷の穀物倉や牛馬の管理をする役人としての仕事に従事したそうです。その性格に違わず、公平で律儀な仕事ぶりだったとかなんとか。
28歳になると、「孔丘学塾」なる私塾を曲阜城内にて開き、徐々に人々が彼の周りに集まってくるようになりました。
この後、塾が安定した頃を見計らって、周都の洛陽へ子路と共に遊学。時代が下り荒廃したとはいえ、そこにまだ周の初期の礼楽が遺されているのではないか、もしそれを知る人がいたら積極的に学ぼう、という趣旨だったようです。そしてこの頃、老子(老聃:ろうたん)に会って意見を交わした、という話があります。本当なのか分かりませんが、興味深いことです。2年間、洛陽に伝わる礼学を修めたこともあってか、「三十にして立つ」と述懐するほどの自信を身につけたようです。
さて、この辺りまでが明(+方向)にある時期です。
これ以降は、生憎その自信と相反するように時代(時の政治体制)とは反りが合わなくなっていきます。
孔丘学塾は次第に勢力を強め、孔子の名声も周辺へ轟いてはいくのですが、仕官の話は待てどもやって来ず。国の舵取りができる地位に就いて善政を敷こうという野心(といって言いのか?)を持っていた孔子にとっては、なかなかに歯がゆい時期だったに違いありません。
しかし、「四十にして惑わず」と自身が述べていることを思うと、表向きの活動力は下火でも、内的な成熟度に関しては、ほぼ完成の域にまで達していたということなのかもしれません。そんな孔子の姿を普段から見つめていた弟子達は、どんな風に感じていたのか気になるところです。「魯国は宝の持ち腐れをしている」というような、きっと複雑な気持ちを抱いていたのではないかと思います。
紀元前505年頃になると、魯の国政が目に見えて乱れ始めます。一方で、その五年後辺りから孔子の(複合)十二運が人生で最大値を迎えます。(まあ、本来は数値ではなく“意味”で捉えるべきでしょうけど。便宜的に。)
個人にとっては天運とも言えそうな世柱の運気が帝旺で、かつ孔子自身の大運の十二運が冠帯。50歳頃のことです。孔子曰く、「五十にして天命を知る」。
この時にまず中都城の長官(町長)に任命され、その施政方針が高く評価されていきます。次第に近隣では見習う町まで出てくるほど。その果報あってか、翌年には時の最高権力者である定公のお膝元へ召抱えられます。この時の職務は小司空。今で言う「財務次官と建設次官を兼ねたような役職」(コミックス:「孔子」)だったそうです。
この漫画(下巻の冒頭)によれば、折りしも小司空の職責を全うしている時、洪水が起きて川が氾濫しかかったことがありました。その時、孔子自らも身を挺して、農民と共に土嚢を積み上げる作業を行ったようです。こうした行為が民衆の信頼と人望を得ることに繋がったのでしょう。実績が認められ、定公から大司冦(現代の「法務大臣と警察庁長官を兼ねたような役職」(同上))に任命されるまでになりました。これで晴れて大臣の仲間入りです。
ようやくツキが巡ってきて安泰か、と思いきや、なかなかどうして孔子の場合、幸運が長続きしません^^;
一気呵成に地位を駆け上がってきた新参者を快く思わない輩が、仲間内で孔子を失墜させるべく画策し始めます。そんな時、斉国の景公と魯国の定公が夾谷で会談するという催しが行われることになり、孔子が宰領として同行することとなりました。
この席上では斉国の伝統舞踊などが行われたそうですが、それが剣やら槍やらの武器を伴った舞であったため、「和平のための会談には相応しくない」と孔子が即刻中止するよう抗議します。これにより武器を持った舞踏は取り止めとなったわけですが、それでも懲りずに不謹慎な事態が続くため、再度、孔子が場を取り直そうとします。
こうした孔子の働きによって、斉国の策略による定公抹殺という謀計は防がれました。その上、斉国は体裁を保つため、謝罪として以前に侵略した土地を魯国に返還するハメに(・・・まあ、「天に唾す」というか「自業自得」というか)。
この辺り、司冦になったのが先か、夾谷会談の功績によって出世したのかは判然としません。ただ、先に大臣の位に就く必要があったのではないかと考えると、司冦任命が先でしょうか。まあ、どうでもいいですが。
その後、内政の乱れを払拭すべく立ち上がり、勝手に私的な武力を得ていた三桓(季孫・孟孫・淑孫)氏の城を攻め落としに掛かります。多大な労力と苦戦の末、なんとか二つの城を陥落させるも、3つ目は防衛上、重要な位置にあったためか、あるいは国軍に最後の城を攻略するだけの力が残っていなかったのか、はたまた十分に悪玉の力は削いだと判断したためか、とにかく中途で終わっています。
さて、いつの間にか宰相格の仕事をするようになったのも束の間、またもや斉国の計略が魯国の定公を襲います。しかし今度は武ではなく、色仕掛け。
よもや孔子には色仕掛けなど利きそうにもありませんが、他の大臣連中や定公にならば効果があるはずと踏んだ斉国上層部。大掛かりな会場まで設けて、魯国の重臣達を美女を使って接待し、舞などの芸を堪能させ、骨身を蕩けさせようとします。
案の定、定公も一人の女性に心を奪われてしまい、国政を放り出してしまう日が続くことに。こうなると、重要懸案を承認してもらうことができなくなるため、さすがの孔子も諌めずにはいられなくなり、定公に苦言を呈します。
涙ながらの訴え・・・だったかどうかは真相は分かりませんが、命懸けではあったでしょう。しかし結局、忠言は通らず。これがキッカケで職を辞すことになり、魯を去って衛国へと弟子を引き連れて旅立つこと決意します。時は紀元前497年、孔子は54歳になっていました。
この後、孔子は14年間もあちらこちらの国を転々としながら、仕官の口を見つけようと動いたり、時を待ったりを繰り返します。述懐によると、「六十になって、素直に人の話を聞けるようになった」とありますが・・・
ところが、いざ動けば災難や障害に見舞われ、いいことなしの連続。苦心して、ようやくまともに取り合ってくれたかと思えば、ズバッと裏切られたりしています。二度三度と官職への良い感触(笑)を得られたと思いきや、孔子を快く思わない人間に妨害されるなどして話が済し崩しに。
生年月日時による時間起卦(僕はこれを命主卦と呼んだりしてますが)が水山蹇というのも頷ける話です。ただ、五爻なので仲間(弟子)や人柄を理解して支援してくれる人々がいたということが、孔子にとっての救いだったのではないかという気がします。
また、ナクシュトラが定かではないけれど仮に27宿が翼宿だとしたら、確かに遠地に縁はありそうですが、いわゆる逆縁ですね、これは。縁はあるにはあるが、憂いや災いの多い縁。
志高く、理想社会実現への想いが強いだけに、受け容れてもらえない絶望感や無念さは生半可ではなかったことでしょう。そんな孔子の気持ちは汲み取れなくもないですが、老子が孔子に語ったという言葉が的を得ていたのではないかと思わざるを得ません。
孔子が礼について教えを乞うたことがあったが、老子は戒めて「古代の賢人は空言のみ残って、骨は朽ちている。君子など時流に乗れなければ、あちこち転々とするだけだ。そなたの驕気と多欲、もったいぶった様子とかたよった思考を取り去りなさい」と教えたという。(Wikipedia 「老子」より) |
こうした14年に及ぶ放浪の中でも、孔子とその弟子達は苦い経験を前向きに捉えて大切なことを学んでいったんだと思いますが、それにしても長すぎます。素直に故郷の孔丘学塾に戻って、後世の育成に励んでも良かったのでは、なんてことを伝記を読みながら思ってしまいました。
結局、どこの国からも召抱えられることはなく、失意と郷愁の下に魯国へと帰ってきます。孔子、68歳の時です。その時、予め孔子の耳に届いていたのかどうか分かりませんが、既に奥さんは亡くなっていました。なんて悲しいことだろう。
さて、塾を任せていた弟子達は14年も主人不在のままであったにもかかわらず、優秀にも塾を繁栄させていた様子。実際、孔子の出世話よりも、こうした弟子達の奮闘努力を綴った外伝の方が面白そうだなー、と密かに思ったり^^
魯国に帰郷した後は、“国老”という政治の顧問役を任されたそうですが、年のせいか政治の表舞台からは身を引き、用事のある時以外は登庁することもなかったとのこと。普段は、部屋で『春秋』の著作、『詩経』および『書経』の編集、そして塾での講義に勤しんでいたようです。
64歳からの食傷運の始まりによって、著述の能力をフル稼働させた、という感じ。(繰り返しになりますが、こうした活動が孔子生来の適性に添った生き方だと僕は思う。ちょっと、いや大分、無理な人生行路を渡ってきたような印象を受けます。)
しかし、そんな平穏な日々も急転直下。
69歳の時、息子の鯉(伯魚)が亡くなってしまいます。遺されたのは、息子の妻と孫の子思。余談ですが、この子思が『中庸』の作者だとされています。この時、まだ子思は6歳。孔子(おじいちゃん)の記憶はいかほどだったのか・・・遊んだり、何かの話を聞いたりというような思い出はあっても、直接的な薫陶を受けたかどうかは疑問のあるところです。
さて、伯魚が旅立った翌年。「七十にして、心の赴くままに振舞っても道を外れなくなった」とのことなのですが、さらに追い討ちをかけるように今度は、一番の愛弟子とされた顔回が、孔子に頼まれた『春秋』の清書を終えたしばらくの後に病死してしまいます。
この顔回という人物、14年間の旅にも同行した人で、個人的にも親しみを覚えているんですが、意外に早死にしてしまって残念です。幾ら賢者・聖人と称されても、孔子は顔回の死にショックを隠しきれなかったことでしょう。
まだ連鎖は止みません。(こういう現象、孔子の太陽・火星・土星のコンジャクションが影響しているように思える。)
長年苦楽を共にしてきた子路にも先立たれてしまいます。彼は衛国の内乱に巻き込まれる形で、義を守って死んでいきました。
こうした精神的な心労に加え、無理を重ねてきた老体は見る見るうちに衰弱していきました。漫画では、途端に老子的な風貌になり、弟子の子貢(顔回と共に入門した商人の息子。そのバックボーンを生かして、孔子らの旅の資金調達を担ったらしい)に泗水(しすい:河)へ行って、「水の流れを見たい」とせがんでいます。実話かどうかは分かりませんが、もうどことなく老子の一歩手前という状態。
そして、紀元前479年の4月。
(冒頭にも書きましたが、これはおそらく太陰太陽暦(旧暦・農暦)の四月ではないかと思います)
臥して後の七日目の己丑日。しんしんと降る雪の中(季節的には疑わしいが)、家族と弟子達に見守られながら、孔子は72歳の生涯を終えたのでした。
◎紫微斗数&六壬神課
自由選択方式を採っているおかげで、いつの時代の命盤でも作れるところが便利。
占術の歴史的には、四柱推命にしても紫微斗数にしても六壬神課にしても、西暦紀元後に多くの人の手によって進化したものらしいので、紀元前にまともなモノがあったのかは怪しいです。また、六壬に関しては歳差の影響で千年ごとくらいに方式が転換しているので、現行方式(※)で作成していいのか不安な点もあります。
(※現代の六壬と古来の六壬は作盤法が異なります。今は月将として占星術のサインと同じ概念を用いますが、かつては月令として旧暦月を用いていました。また貴人を起こす表も違っています。ただし、これを西洋占星術のようにトロピカル的に月将で固定し得るものならば迷いはなくなります。概ねホロスコープでのサインとハウスに近いですが、六壬の場合は近似値的な表繰りなので、必ずしも合致するわけではありません。占星術の場合はASCとMCを基準に分割するのが主流ですが、六壬はインド占星術のようにWholeサイン方式なので、ASCのあるサインから箱のように並べていく格好になり、往々にしてカスプが一致しなくなります。)
せっかくですので、素人見ですが、紫微斗数の命盤を少し読んでみます。
命主星が文曲星で、身主星が文昌星。まさに人生、学びという印象。
また、命宮と身宮が一緒。生涯、天同星を地で行くという感じでしょうか。周の文王に象徴されるような徳性の星ですが、化忌+陥の羊が気になるところ。
対宮の遷移宮には太陰が座して化科となってますが、残念なことに輝度が落ちています。ここからも移動運に恵まれてないことが読めます。
官禄宮には天機という智恵の星があって孔子らしいですが、これも落陥しており有用ではありません。
精神の安定度を測る福徳宮も、化禄でありつつも輝きのない太陽。地劫+天空。乙級諸星が盛り沢山。真に心の休まる時というのが人生の中でどれほどあったのか・・・
一方、財帛宮には巨門星が旺じていて、能弁さを上手に使うことで生計を立てられそう。廟の紅鸞や天貴もあって、この部位は使えます。
それから一番いいのは奴僕(僕役)宮。ここは部下とか弟子の宮ですが、旺の紫微星と廟の天府星。孔子の場合、弟子が出世して高官に登ったり、難局を切り抜ける力(立役者)になってくれたのは、この宮の良さが出たということなのかな。
まあ、僕は六壬や紫微斗数に関してはあまり勉強できてないため、大して深い読解はできません。また、出生時刻も仮ですし。詳しい人への参考資料という感じです。
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