With the I Ching

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孔子 Part3

2010-02-10 00:17:30 | 占い全般のコラム
ところで、易経の十翼の内、少なくとも繋辞伝は孔子の作でないかと言われています。

繋辞伝は易の哲理の、それこそ聖人や賢者でなければ分からないような深い部分を解説している文面です。
しかし、それほど通じていた易を実践で使用していたかどうか、その辺がいまいち分かりません。

前回の高島嘉右衛門さんは、易の神様と仲良くして人生に役立てていたようでしたが、孔子の場合、なんだかそんな感じがしないのです。占筮の方法が確立されてなかった、ということはないはずですが。そもそも周の創成期に易の卦爻辞が書かれたのであれば、それから550年ほど経っている。まあ、きちんとした伝記を読んだわけではないため、よくよく探せば、そうした記述もあるのかもしれません。この本に書かれているよ、というのをご存知でしたら、読者の方、教えて頂けるとありがたいです^^

それはそうと、個人的には、孔子は伏羲(ふっき/ふくぎ。易の八卦を作った伝説的な人物または神)の霊的系譜の中にあるような気がします。同様に、それは文王(64卦を作ったとされる)と周公旦(爻辞を書いたとされる)にしても、そうかもしれません。孔子自身、特に旦を理想の人物として聖人視しており、「夢に見られなかったから私は年を取ったみたいだ」と嘆いた逸話もあるほどですし。

もしかしたら、後世に遺されるような重要な易の解釈とか注釈を書いた人は皆、伏羲以降の“易樹”とも言うべき精神的な系譜に連なっているのかもしれませんね。


余談ですが、僕は孔子を思うと思想系譜的にソクラテスとリンクします。(年譜としては、孔子が亡くなって数年後のギリシャにソクラテスが誕生)
というのも、儒家思想による政治を目指した孔子の理想と、善政や徳政を目指したソクラテスのそれとは大本で通じ合うものを感じるからです。

これは、あるいは当時の世界の潮流であったのかも知れません。時代の必然的流れとして、そうした人物が続々と輩出された。

占星術(プラトン大年・大月)的には、「おひつじ座の時代」の残り500年(一つの時代は約2160年続く)に相当しており、より原始的な純粋で力強い教え(思想哲学)への回帰が求められた、ということなのかな。特に孔子は創成期の周王朝で整理された礼楽にこだわっていたらしいから、もしかしたらそうかもしれない。

その一方で、老子が説く「無為自然」による生き方や政治的な統治は、まさに舜帝のような仁者(思いやりのある者)にしか果たせない、と孔子自身が述べています。これは裏を返せば、そうしたやり方で人の世を生きていくことは、これからの時代は難しく、現実的に対応していけないだろう、ということを感じていたからなのかも知れません。そのため、孔子は老子のような仙人風の考え方は説かず、人が社会生活していくことを前提にした行動規範を展開したのでした。

その後、時代が下って、西暦が始まる前後にイエス・キリスト(僕は“イエス”という呼び方に馴染めない。英語では“ジーザス”というのが普通なので)が誕生。この辺りから「うお座の時代」がスタートして、それまでの「おひつじ座の時代」とは思想的に趣が異なる世界情勢が形成され始めていきます。

そして現代は、これから「みずがめ座の時代」に入ろうか、という状況です。正確な時期については諸説ありますが、僕自身は本格的な一線を越えるのは2089年頃(移行期として2044年~)と考えています。移行期というのは四季の巡りのようなものとして考えると分かると思います。今の時期で言うと、冬から春への変遷のような状態。

冬至で太陽が最も低い位置に来てから数ヶ月、北半球では最も寒い時期を迎えます。それから、立春を過ぎると陽気が盛り返し始め、春分になると昼夜の時間がイーブンになります(陰陽の力が拮抗し、期せずしてパワー・バランスが逆転する)。東洋占術では立春を、西洋占星術では春分(インド占星術では反対側の秋分)を年変わりの基準としますが、いずれも過渡期における特定の時期を力点として活用していることになります。

プラトン大月である2160年を24節気の数で割ると、一つが90年。
僕の考える「2089年本格期移行説(^^)」に当てはめると、1999年からが24中の最終ブロックに相当します。
先の例え話の延長で述べるならば、立春を転換点とした場合では今は「大寒→立春」間。また、春分を転換点とした場合では「啓蟄→春分」間ということになります。(発想としては東洋占術なので前者のイメージかも。となると、一番寒い時期に当たるわけですが・・・)

あと、時期の目安を図る手立てとしては、「四柱推命 白帯」でも使っている元会運世を考えるっていうのもアリかもしれません。その場合は、僕が想定している年から15年後ろにズレることになります。つまり、2104年から本格期、という流れ。

――とまあ、大体そんなイメージで、現在は「うお座」と「みずがめ座」の影響が交じり合う形で世界に投影されていると考えています。
(「~~座の時代」ということの参考リンク:「水瓶座の時代」)

ちょっと脱線しましたが、釈迦・孔子・ジーザス等を始めたとした聖人賢者が遺していった思想体系に代わるような、または、それらを統合するようなスマートな考え方が世界に満ちていくことによって、次第に「みずがめ座の時代」が幕開けていくことになるのだろうと思っています。

殊に、今は思考の世界と科学とは既に切っても切り離せない間柄になっているので、精神性(各個人の考え方)であれ物質性(科学技術の恩恵にあやかった都市型生活)であれ、どちらかが偏重しては統制が取れなくなってしまいます。理想と現実、精神と物質(心と体)、意識と無意識、自然と科学・・・といった、かつては二極として捉えられがちだった双方が、実は飛翔するための“両翼”だったということを理解し、その上で連携してバランスを取っていく=融和していく方向性が必要です。でも、そんなことを改めて言うまでもなく、現状として、そういうストリームの最中に僕らは生きているように思います。

将来的には、個々の意思(精神の働き)をヴィヴィッド[vivid]に反映させることのできる技術開発が大きく育っていくでしょうから、必然的に、一人ひとりが自分自身の感情の取り扱いについて注意深くなることが求められてくるはずです。心(気持ち)の上手な働かせ方、頭脳による思考、そうしたものと機械の制御とが密接に関わりあうようなテクノロジー。

ただ、今は先にも書いたように、時代的に厳寒の時期に相当している感じがあるので、こうした技術の開発が主流になるには、一つの試練が課せられた後になる可能性が高いかもしれません。

先年のリーマン・ブラザーズの一件や新型インフルエンザウイルス問題が瞬く間に世界に波及したように、集団意識に関わる世界規模でのこともあるでしょう。その一方で、個々の葛藤(生活や人間関係の変化への対応力など)として、誰もが通過儀礼的に経験し、乗り越えていかなくちゃならないということもあるのでしょう。

最近、自身を含め、周囲の人達を見ているとそんな風に思えてなりません。多分ですが、「平々凡々(なあなあ)としながら、いつの間にか新しい時代を迎えちゃったみたい^^」なんて呑気なことが言える人はいなくなるのではないか、という気がします。

誰も彼もが、その人に応じた困難に対処させられ、その過程で自らの感情や意思や願いや言動の因果とシンクロしていく。これが、今まさに世界中の人々の総体として新しい世界の兆しを生み出しているように感じます。かなり以前の記事にも書いたけど、やっぱり特定の選ばれた人達に世界の命運を託すというのは、ストーリーとしては違うと思う。今の世界の有様を見るに、“全体として進歩するか、荒廃するか”という風になってる気がするから。

一例を挙げれば、地球温暖化対策にしても自然環境保護にしても、先進国だ途上国だなどと屁理屈をこねている場合じゃないはずだし、身近な人達との関係でも(事情は違えど)、できるところから少しでも進捗させていくべき時にあると思う。


・・・で、振り出しに戻って。

なぜ今回、孔子を取り上げたかというと、それは彼の説いた教えの中に「おひつじ座の時代」に見られる簡潔でパワフルな教えが息づいているからです。(僕は孔子を信奉しているわけではありませんし、他人に勧める気もありません。ただ、その哲理の土台について話をしているだけです。)

孔子は自身としても「春秋」を書いたり、膨大な量の「論語」に示されるように多くを語ってきたようですが、その根本にあった思想は驚くほど単純明快です。その体系は、いわゆる「礼・孝・仁・徳・義・忠・信」(あるいは、よく知られる仁義礼智信の五常)といった要素で構成されたもので、要訣として自身の内側にストレートに浸透させることさえ可能な内容です。

おそらく、孔子が煩雑とも解される多くの作法や儀礼を説いたのは、釈迦がしたような個人に対する方便が一緒くたに編纂されたからなのでは、という気さえします。

また、下克上や恩知らずな蛮行が当然のように行われていた当時の政治社会では、修行僧の戒律のように自らを厳しく諌めるような決まり事を儀式的に設けることが必要だったのかもしれず、それを「聖人である孔子が説いたことだから」と、そっくり現代に持ち込めば無理が生じます。それらの儀礼は、一種の「行動の前のワンクッション」や行き過ぎを防ぐための「歯止め」として機能していただろうからです。

簡単に言えば、何かをする際に、それが良心に反していないか、人としての尊厳を踏みにじるようなことではないか、自分自身を偽ったり相手を裏切ったりするようなことではないか、等とちょっと立ち止まって考えてみなさい、ということなんじゃないかと思うのです。だから、実際的にまとめてしまえば、それは先に触れたような「礼・孝・仁・徳・義・忠・信」(仁義礼智信)で原理的には事足りる、ということなんだと解釈しています。

こういう考え方は、易の八卦や仏教の八正道(「八卦と仏教の八正道は、たぶん同じもの。」参照)もそうだし、エニアグラムやカバラの生命の樹もそうです。それらの根本思想は「おひつじ座の時代」に創生もしくは発展・完成されたものです。言い始めれば際限ないほど細分化できるが、大局的に見れば、八卦や9タイプや10のセフィロートなどとして括ることができる。それは「礼・孝・仁・徳・・・・」でも同じだと思うのです。


なお、本などを読むと、孔子は周王朝創成期の礼や義の復権を理想としていたようですが、本質的には「仁の一貫」とあるように、仁(慈愛・人の道)ということの追求にあると思います。

「子貢問うて曰く、一言にして以って終身これを行うべきものありや。子曰く、それ恕か。己の欲せざる所は、人に施すことなかれ(衛霊公・第15)」
(子貢<孔子の長年の弟子>が問う。生涯をかけて実践していくべきものを一言で仰って下さい。孔子が言う。それは思いやりの心だろう。自分がして欲しくないことは人にするな。)

これは、日本風に言えば「和の精神」ということになるでしょうか。周りの人達との親愛の情や、事に及んで共感できる気持ちを大切にすること。
言葉を変えれば、「徳は弧ならず、必ず隣あり」(【論語】:徳というものは孤立したものではなく、必ず繋がり合っているものだ)ということと通じるように思います。

僕は日本人として生まれていながら、実のところ現代日本が好きではないし、たぶん世界のどこかの国の社会の方が性に合うんじゃないかと思っているくらいなんですが、それでも、日本人のルーツに流れている「和の精神」が自分にも備わっているといいなと願っています。子貢じゃないけれど、これを保ち続ければ世界のどこに行っても「和」(信頼や徳で結ばれた輪)を作り出すことができるだろうから――


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