今日、2月14日はバレンタインデーですが、旧暦での正月にも当たります。(あ、この表現は誤解を招きそうだ。毎年、バレンタインデーが旧暦1月1日という意味ではないです。年毎に日時は異なります。)
現代では旧暦(正式には太陰太陽暦という。以下、旧暦で通します)が日常生活で使われることってまずないですが、少なくとも僕にとっては欠くべからざるものになっています。
それはちょうど「13の月の暦」に意識を合わせて生活されている方に似ています。僕の場合、旧暦が波長を合わせる対象になっている、というわけです。
旧暦を使って易占(時間易)をしたり、年運・月運・日運などを出して指針としているので、常に身近なモノとして感じています。また、紫微斗数でも旧暦が年の変わり目になっていますね。
この旧暦は、太陽と月と地球の位置関係から精密に計算されて作られます。特に月の天文位置計算は複雑だそうですが、そうしたデータに基づいて新月(朔)の日時が求められ、また種々の定義に従って何月になるか、閏月が入るかどうかが決められていきます。
以前の記事にも書きましたが、旧暦の作り方には昔の方法と現代の方法とがあります。
昔は「平気(恒気)法」という時間分割による手法が採られていましたが、精度の問題により、現代では「定気法」に代わっています。また、それぞれには「平朔(恒朔)」および「定朔」による作り方があり、細かく分ければ4種となります。(もっとも平朔方式は誤差が大きくなるので、時代的にも早くに定朔に向かったようです。現代は「定朔定気法」ということになります。)
概して、平気法による旧暦作成ならば僕のような素人でもやろうと思えばできます。ですが、占術の基礎データとしては経験的に実状と合わなくなるので僕は使いません。一応、定気法にも「旧暦2033年問題」のような矛盾点はありますが、今のところ、これに代わる技法はないみたいです。(2033年になった時は困りますが、逆に言えば興味深いデータが取れそうですね)
ところで、年の変わり目については各占術で様々な考え方があります。
例えば先に挙げた紫微斗数では旧1月1日ですが、四柱推命や六壬では立春(これは太陽黄経のみで求められる)です。この他、易占では冬至(陰が極まって陽が兆す日)をもって一年の運を占ったりします。
一方、西洋占星術では、立春(2月4日頃)より遅れること一ヶ月半後の春分(3月21日頃)を年の転換点と定めています。この春分図を検討することで翌年の春分までの運勢を見るわけです。細分化すれば、それを春分から夏至までの期間として読み解いて、それ以後は夏至・秋分・冬至のそれぞれのポイントで季節の推移を考えることもできます。
また、占星術では新月図や満月図、日食図や月食図を読むことがありますが、同様に新月日(朔の日時)を用いて卦を立てたりして(タロット等でもいいでしょうけど)、次の新月までの月運としても良いです。これは新暦(西暦)での月初や年初での占いとは別の意味がベースにあります。
西暦は、歴史的にかなり人工的(恣意的)に作られてきたものなので、天体の運行などの自然の摂理からは離れたものになっています。社会生活という面では必須ですが、一方で各国が独自の暦を保持(堅持)していることが多いのは、その中にその国ごとの精神性とか民族性が反映されているからなのではないかと思います。
日本の場合も中国の旧暦(農暦)とは緯度・経度の違いもあって少し異なっています。24節気や72候という季節の指標の意味にも、所々に日本独自の季節感が施されています。
世界には、今話題のマヤ暦を含め、非常に独創的でユニークな暦が沢山あります。
暦を専門に扱っているサイトをご覧になると、その多彩さに驚かれることでしょう。それぞれの国(地方)の文化や気候に応じた暦が考案され、中には長大な歴史を持つものや、マヤ暦のように高度な天文・数学の技術、および固有の思想や世界観に基づいた意義深いものまで、まさに多岐に渡ります。
旧暦(太陰太陽暦)も長い歴史の間に何度も改訂され続け、そして現代の精緻な天文位置計算の手を借りて、ほぼ完成の域にあります。(“ほぼ”と書いたのは先述した「2033年問題」があったりするからです)
冒頭でも嘆いたように、今では旧暦を日常的に意識する人は少なくなり、それどころか旧暦の存在すら知らない人もいるくらいです。まあ、別に知らないからどうだってことはありませんが、西暦一辺倒で生きるというのも遊びがなくて息が詰まるような気がします。
繰り返しになりますが、各国に伝承されている独自の暦は、その土地の文化や根本に流れる哲理を含んでいるものなので、そうしたものとの接点が失われがちな社会というのは、どこか殺伐としてくるのではないかと僕には思えます。そして現代的な闘争や競争に巻き込まれていってしまう。
現代生活におけるストレスのはけ口(広い意味での魂を遊ばせる場)があるということは、その文化圏にとっての“安全弁”があるということ。解釈が間違っていると言われるかもしれませんが、孔子が求めた礼楽というのも、そうした安全弁の役割を担っていたのではないかと僕自身は思っています。
「13の月の暦」でもいいですが、旧暦(太陰太陽暦)のように自然の運行と同調する暦にも意識を向ける人が増えてくれたら僕としては嬉しいです。(…単に話ができる仲間が欲しいという潜在的願望だったり!?)
現代では旧暦(正式には太陰太陽暦という。以下、旧暦で通します)が日常生活で使われることってまずないですが、少なくとも僕にとっては欠くべからざるものになっています。
それはちょうど「13の月の暦」に意識を合わせて生活されている方に似ています。僕の場合、旧暦が波長を合わせる対象になっている、というわけです。
旧暦を使って易占(時間易)をしたり、年運・月運・日運などを出して指針としているので、常に身近なモノとして感じています。また、紫微斗数でも旧暦が年の変わり目になっていますね。
この旧暦は、太陽と月と地球の位置関係から精密に計算されて作られます。特に月の天文位置計算は複雑だそうですが、そうしたデータに基づいて新月(朔)の日時が求められ、また種々の定義に従って何月になるか、閏月が入るかどうかが決められていきます。
以前の記事にも書きましたが、旧暦の作り方には昔の方法と現代の方法とがあります。
昔は「平気(恒気)法」という時間分割による手法が採られていましたが、精度の問題により、現代では「定気法」に代わっています。また、それぞれには「平朔(恒朔)」および「定朔」による作り方があり、細かく分ければ4種となります。(もっとも平朔方式は誤差が大きくなるので、時代的にも早くに定朔に向かったようです。現代は「定朔定気法」ということになります。)
概して、平気法による旧暦作成ならば僕のような素人でもやろうと思えばできます。ですが、占術の基礎データとしては経験的に実状と合わなくなるので僕は使いません。一応、定気法にも「旧暦2033年問題」のような矛盾点はありますが、今のところ、これに代わる技法はないみたいです。(2033年になった時は困りますが、逆に言えば興味深いデータが取れそうですね)
ところで、年の変わり目については各占術で様々な考え方があります。
例えば先に挙げた紫微斗数では旧1月1日ですが、四柱推命や六壬では立春(これは太陽黄経のみで求められる)です。この他、易占では冬至(陰が極まって陽が兆す日)をもって一年の運を占ったりします。
一方、西洋占星術では、立春(2月4日頃)より遅れること一ヶ月半後の春分(3月21日頃)を年の転換点と定めています。この春分図を検討することで翌年の春分までの運勢を見るわけです。細分化すれば、それを春分から夏至までの期間として読み解いて、それ以後は夏至・秋分・冬至のそれぞれのポイントで季節の推移を考えることもできます。
また、占星術では新月図や満月図、日食図や月食図を読むことがありますが、同様に新月日(朔の日時)を用いて卦を立てたりして(タロット等でもいいでしょうけど)、次の新月までの月運としても良いです。これは新暦(西暦)での月初や年初での占いとは別の意味がベースにあります。
西暦は、歴史的にかなり人工的(恣意的)に作られてきたものなので、天体の運行などの自然の摂理からは離れたものになっています。社会生活という面では必須ですが、一方で各国が独自の暦を保持(堅持)していることが多いのは、その中にその国ごとの精神性とか民族性が反映されているからなのではないかと思います。
日本の場合も中国の旧暦(農暦)とは緯度・経度の違いもあって少し異なっています。24節気や72候という季節の指標の意味にも、所々に日本独自の季節感が施されています。
世界には、今話題のマヤ暦を含め、非常に独創的でユニークな暦が沢山あります。
暦を専門に扱っているサイトをご覧になると、その多彩さに驚かれることでしょう。それぞれの国(地方)の文化や気候に応じた暦が考案され、中には長大な歴史を持つものや、マヤ暦のように高度な天文・数学の技術、および固有の思想や世界観に基づいた意義深いものまで、まさに多岐に渡ります。
旧暦(太陰太陽暦)も長い歴史の間に何度も改訂され続け、そして現代の精緻な天文位置計算の手を借りて、ほぼ完成の域にあります。(“ほぼ”と書いたのは先述した「2033年問題」があったりするからです)
冒頭でも嘆いたように、今では旧暦を日常的に意識する人は少なくなり、それどころか旧暦の存在すら知らない人もいるくらいです。まあ、別に知らないからどうだってことはありませんが、西暦一辺倒で生きるというのも遊びがなくて息が詰まるような気がします。
繰り返しになりますが、各国に伝承されている独自の暦は、その土地の文化や根本に流れる哲理を含んでいるものなので、そうしたものとの接点が失われがちな社会というのは、どこか殺伐としてくるのではないかと僕には思えます。そして現代的な闘争や競争に巻き込まれていってしまう。
現代生活におけるストレスのはけ口(広い意味での魂を遊ばせる場)があるということは、その文化圏にとっての“安全弁”があるということ。解釈が間違っていると言われるかもしれませんが、孔子が求めた礼楽というのも、そうした安全弁の役割を担っていたのではないかと僕自身は思っています。
「13の月の暦」でもいいですが、旧暦(太陰太陽暦)のように自然の運行と同調する暦にも意識を向ける人が増えてくれたら僕としては嬉しいです。(…単に話ができる仲間が欲しいという潜在的願望だったり!?)
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