(※かなり長い文章です。内容が分かっている自分が読み返すにも20分掛かりました。時間のある時に、ゆっくりと読んで頂ければ幸いです^^ もし面倒なら、途中の作り話は飛ばしても構いません。)
四柱推命白帯には、一応ですが喜忌判定機能が付いています。
だけど今思うと、この判定機能は失敗作だったのではないか、という気がしています。
そもそも、喜忌とは何なのでしょうか?
「喜忌が肝要」という一般論に沿って作ってはみたものの、実際には自分自身でさえ、その根幹に対する理解が得られていない状態での作成だったこともあり、いま一つ明確さに欠けているような気がしてなりません。
今、「根幹」という言葉を使いましたが、要するに「喜び」と「忌み(不快に思う)」、あるいは「楽」と「苦」、はたまた「ポジティブ」と「ネガティブ」・・・表現が何であれ、相対的な概念を扱っていることを思うと、いったい何をもって喜びとし、何をもって忌み(嫌うもの、恐れて避けたいもの)とするのか、ということを考えざるを得ないわけです。
本来、「喜び、楽しみ、幸せ」と「苦しみ、忌み嫌うもの、悲しみ、不幸」とは陰陽のようなものです。ともに干渉し対立するものでありながら、裏では支え合っている、という不思議な関係性がある。なので、苦を避けたり忌み嫌うことは、裏を返せば、喜びに対する歪みや屈折をもたらすのです。
また、喜忌を見る上で基準が何かを考えることも、重要な視点だと思います。
おそらく一般論として喜忌を判じる時の基準は、「命式に対する五行の配合や干支を平常として、各時期での五行の増減や十干(通変)の関係性を考慮して決める」という感じのものじゃないかと考えていますが、もっと本質を突き詰めると果たしてどうなのか。
人の喜びや苦しみの感じ方を考えてみると、たぶん「ある時を、それ以外の時(主にこれまで生きてきた過去)と相対的に比較してみて、嬉しいのか辛いのか」を意識するのだと思います。だとすれば、どちらを感じるにしても固定的なものではなく(そもそも感じ方ということ自体、主観的で個人的なものですよね)、常に変動するものだということに思い至ります。
(※ここから例え話。読むのが面倒なら飛ばして下さい。)
抽象的な話では分かりづらいので、例を挙げて考えてみます。以下は長い作り話です。
そうですね、例えばAさんという独身男性のサラリーマンの方がいたとします。比較的真面目なタイプで、あまり派手なことを好まない性格だとしましょうか。また、その方の月給が手取り20万円だったとして、その月給で既に何年か過ごしてきていると仮定します。
このAさんは、手取り20万円の中から、家賃やら税金やら携帯代やらの必要経費を払っていくと、実質、一ヶ月の間で自由に使えるお金は10万プラスアルファくらい。その上、この方は堅実な方で将来のために貯金もしていこうと考えているため、さらに1万か2万かを自主的に蓄えに回している、としましょうか。そうなると、現実的には10万円で日々の家計をやりくりしていかなければなりません。
ですが、こうした10万円生活を何年も続けていると、怖いものですが「慣れ」が出てきて、そうした日常をことさら苦としなくなる傾向が強くなってきます。
まあ、時にはどうしても欲しいものがあって衝動的に買ってしまったり、予期せず電化製品などが故障すれば、修理に出したり買い換えたりするような急な出費もあります。それでも、普段から行き過ぎないように気を使った生活を送っている限りは、「どうにかこうにか対処できる」という半ば諦めにも似た自信すら出てくるものです。
ところが、そんな生活を送っているAさんに、ある日、昇進&昇給の話が舞い込んで来ました。日々仕事に情熱を注いできた功績を認められたのか、経験や技能を買われたのか、ともかく少し責任のある立場に就かないかというわけです。
さて、ここでAさんは迷います。自分の働きや能力を評価してくれたという素直な喜び、また昇進による給料アップにも惹かれます。一方で、他のメンバーを引っ張っていくリーダーシップが自分にあるのかとか、部下がミスを犯した時に自分が責任を負うことになるのは嫌だなとか、これまでのような自由気ままな生活が送れなくなるかも、といった不安も同時に心に去来します。
喜びと不安とは表裏一体で不可分ですから、そうした感情が湧き起こるのも当然です。喜びの影に苦悩あり。物事の表も裏も併せて見なければ、正しく真実を見ているとは言えないのだから。
ま、それはともかく、Aさんはあれこれ自問したり周囲に相談した結果、昇給の話を受けました。
これによって給料も以前の1.5倍、つまり手取り20万円から30万円に上がったとしましょう。これで自由に使えるお金が増えました。将来のために預貯金をしてきた彼にとって、月給が底上げされることは喜びであるはずです。また、自分の実績を認められた上、より技能を発揮しやすいポジションにつくことができて気分的にも嬉しく感じています。
しかし、その反面で立場上の交際費や仕事上のストレスも、今まで以上に掛かるようになってきたことに、少なからず動揺もしています。これは今までにはなかったことなので慣れるまでは一苦労です。さらに、手取りが10万円増えたことで、以前の自分を思うと信じられないような欲が出てきたことにも気が付き始めました。
昇進前ならば、意識的にセーブしていたことも、どこかタガが外れがちになっています。「自分へのご褒美」や「気分転換」として認めていた贅沢(買い物でも料理でもギャンブルでも何でもいい)の回数が増えたり、よりグレードの高いものを欲したり、あまり要不要を考えないで買ってしまって後で後悔するケースが増えてきたのです。また、少し顔が利くようになったことで、無自覚の内に居丈高になって、部下にキツク当たってしまうようなことも出てきました。そんな日の夜は自己嫌悪して、「こうした感情や欲は、以前の自分ならば持ち合わせてなかったはずなんだけどな・・・」などと卑屈になってしまったり。
それでも、そこそこ責任感の強い彼は、任された仕事や自分にしかできない役割を果たそうと頑張ります。それは充実感と生きている心地の良さを味わわせるもので、矛盾した感情を持ち合わせながら、現状がもたらす幸せも同時に感じていました。
こうした日々を送る中、交際が広がった影響で比較的好みの異性(Bさん)と知り合う機会を得たAさん。関係が発展してお付き合いする運びになり、また互いにそこそこの年齢だったこともあり、その後しばらくして結婚の話が持ち上がってきました。ところが現実の進展とは裏腹に、これまで仕事一筋で特に結婚や家庭を持つことを考えていなかったAさんは、いざ現実に直面すると戸惑いを隠せません。もちろん、好きな人と一緒になることや、親になって家庭を持つことの期待も大きいわけですが、なかなか踏ん切りが付きません。
そんな状態で煩悶としていると、同僚の女性(Cさん)から心配され、つい相談に乗ってもらっている内に、あろうことか気持ちが揺れ始めてしまいます。決して浮気心で話しているわけではないのに、相手の優しさに寄りかかってしまう自分がいる。「もしかしたら俺はこの人を好きなのかも。それにCさんも何だか自分に気があるような・・・?」――そんなことさえ、ふと考えてしまう。
そんなAさんの気持ちの変化を感じ取ったのかBさんは不安になり、いつしか「浮気をしているのではないか」と疑いの感情をもつようになってしまいました。もちろん、それは自分の思い過ごしなのかもしれないと考えるも、Aさんの態度がよそよそしさを増しているのを見るにつけ、Bさんは関係があやふやになってきていることを実感し始めます。
小さなヒビが徐々に広がり、それが亀裂と化すと、とうとうCさんを巻き込んだ三角関係に発展。Aさんは自分の態度をハッキリと決められず、そんな様子を見たBさんにもイライラが募り、またCさん自身も内心Aさんを好きだったために複雑な心境に。こうした膠着状態がしばらく続いた結果、結婚の話はもちろん、AさんとBさんの交際そのものも気まずいものとなり、期せずして別れてしまうことに。また、二人の関係に傷を作ってしまったと自責の念に駆られたCさんもAさんと顔を合わせ辛くなり、次第に自然消滅の道を辿って行きました。
生来的に生真面目であったAさんだけに殊のほか意気消沈してしまい、何となく仕事にも付き合いにも気が乗らなくなってきて、つまらないミスをしてしまうことも度々。最初の内は同僚も励ましてくれたものの、気持ちの乱れが生活の乱れを呼び、お酒に頼ったり、憂さ晴らしに興じることが増えてくると、だんだんと人徳を損なってしまったようでした。こうした状態を上役が放って置くわけもなく、Aさんは降格させられ、別の部署へと転属を命じられました。
一応、これまでの働きを踏まえて、手取りで月25万円近くは貰える仕事であったにも関わらず、長期間ではなかったとはいえ月30万の生活を経験したAさんにとっては、心ならずも不満を覚えてしまうのでした。それに、昇給したことで勇んで組んだチョット高額な車のローンも、この時にあっては想像以上の負荷となってしまい、女性関係での失敗に加えて、さらに心労が重なる事態になったのでした・・・。
(※ここから、また本論。)
――さて、長くなってきたのでこの辺で止めますが、案外こういう作り話に似た事例も少なくなかったりするのかもしれません。
誰しも“喜び”が恒久的ではないこと、幸福の裏に不幸が備わっていることは理屈の上では分かっているものですが、それを実感するのはタイムラグがあるせいか遅れがちで、「後悔先に立たず」の諺のような結果が彼方此方で起こっています。また、自分自身を振り返っても、思い当たる節が多々あります。
特定の時期、まあ、四柱推命では大運や年運辺りをよく使いますから、特定の10年は調子が良いとか、特定の年に結婚する可能性があるとか、昇進とは言わないまでも周囲や世間に評価される見込みが出ている等と示されることがあります。または単に漠然と、「この年くらいから運気が上向きになりそうですよ」とか。
ところが、現実は喜忌が入り混じった形で存在しているとしか思えず、ある年全体が喜であるとか忌であるなんていうことは、正直なところ言えないのではないでしょうか。まして大運や方運の喜忌を断じることに、一体どれほどの意味があるのか(たとえ大運を5年区切りにするとしても)と思ってしまいます。
こうした考えは、四柱推命における喜忌の概念を根底から崩してしまう恐れがあるため、あまり深く切り込まないほうがよいのかもしれません。それでもこういう面倒な話を書くのは、元々僕自身の中に「喜であれ忌であれ、そこに明確なラインを引くことは無理なのでは?」という意識があるからです。それは善悪の概念と同様で、絶対的・確定的な位置づけを見出すことができないからです。よく「人生万事、塞翁が馬」などと引き合いに出される通り、何がどうなってどうなるのか、そしてそれがもたらす因果と主観的な幸不幸を固定的に捉えることはできません。
僕も何度も書いているし、多くの人が綴るように、物事の一時的な苦しみが良い意味での試練となって、当人の成長に一役買うケースがあります。「振り返って考えてみれば、あの時の大変さが今の自分の礎となった」と回顧するような状態です。それは凶事を経験した時に、いつまでもネガティブさに固執せずに、どこかで意識の方向転換を果たしたことに起因しています。それが周囲の人の働きかけのお蔭か、あるいは自分自身の大改革かは人それぞれですが、逆境や辛いことに負けないポジティブさをネガティブさにぶつけて相殺し、中和した結果かもしれません。
また、一方で何らかの幸せを感受したことで気持ちが浮かれてしまい、いつしか節操を失ってしまうというケースもあるわけです。分かりやすいのはロト6や宝くじで億単位の当選者になった人でしょうか。あるいはギャンブルでの大当たりでもいいです。そうした突発的な幸運は、大概その人の人生に大きな影を落としていきます。もちろん、高額当選しても日々の勤めを忘れず、謙虚な暮らしを続ける賢明な方もいるわけですが、突然の喜びに舞い上がって我を失ってしまう人のほうが圧倒的に多いでしょう。
僕がかつて「占いをギャンブルなどに使わないほうがいい」と事あるごとに述べていたのは、そうした事例を幾つか見てきたからです。賭け事に占いを持ち込むと、高い確率で性格的にも歪みが出ますし、勝敗の研究に凝って、一喜一憂のスパイラルから一層抜け出られなくなります。しかもそれは、仮に金銭的な利益を得ても、それを帳消しにして余りある時間の浪費と空虚さを伴うものです。お勧めできません。
話が逸れましたが、上記の例では、Aさんは自分の仕事が認められて昇進し、給料アップを得て生活に余裕が生まれました。しかし、同時に欲も深くなり、高まった生活の質を保とうとあくせくしたり、仕事へのやり甲斐は増したものの付随する責任にストレスを抱えるという矛盾も生じました(まあ、それ自体は立場が変われば誰でも苦労するものなので普通のことなのかもしれません)。可哀想なのは、せっかく結婚話まで出た相手とすれ違ってしまって、結局別れてしまったこと。(作り話の中で、ですが)
状況は人それぞれですが、幸せや喜びを感じれば、しかもそれが強く大きいほど、それに相対する形で落差を感じた時のショックも強く大きくなります。反対に、人がどん底にあれば、そこから這い上がっていくことは、それまでの辛さに比べたら全てが喜びに思えるはずです。どっちにしても、僕らは絶対の世界ではなく、陰と陽、光と影、女性と男性が混在する相対の世界に生きているのですから、完全な喜びや悲しみがあるとしても、それはホンの一瞬のことで、たとえ魔法のような高度な技術を使ったとしても永続することは叶いません。それが自然の理、宇宙の法則だと言い切ってもいいでしょう。
ちょっと論旨から外れるというか、遠回りな話になりますが・・・
現代社会は、多くの場面で比較や競争、合理的な割り切りによって成り立っています。他の大勢の人(または国や会社などの集団同士)と比べて少しでも優位になることがあれば、それが良しとされて賞賛されたり、武器として使えという世相。それは個々の肉体面でも、また感情や心といった精神面においてもです。個人主義だとか資本主義、あるいは自由経済主義というのか、その辺のことは勉強不足ですが、ともかくそういったシステムを強烈に推し進めてきたのが西洋の文化だという指摘は多く見聞きします。
もっとも、今となっては西洋も東洋も表面上は無いようなもので、世界全体として競争社会であり、生命ある存在としての“心の豊かさ”が戯言だと一蹴される雰囲気さえある時代になってしまっています。まあ、その心のゆとりをもたらすためにも、ある程度の経済的な安定が必要であることは確かなので仕方ない面もありますが、それでも様々な弊害が出ている昨今、やはり行き過ぎていることは否めないと思います。
国や地域を守るため、自社の利益を出すため、競争相手を出し抜くため、人より優位に立つため――規模は違えど、そうした集団的意識に飲み込まれる形で教育を受け、また、個人自らもそうした心をあまり咎めることなく肯定する人生を送ってきている気がします。物事や関わる人に対して合理的であったり、分析的であったりすることは良い面もありますが、それも行き過ぎれば害をもたらします。また逆もしかりで、精神的な面を強調しすぎれば、それ相応の問題が浮上してきます。今の日本の“ゆとり教育”の弊害問題のように。(まあ、これに関しては、そもそも何をもって“ゆとり”と言うのか、その論点がズレていたのではないかという気もするのですが。)
数百年前、あるいは今から千年・二千年前でさえ、既に都市化や文明化が進んで止められない(農耕だけをしていればいい、という時代にはもはや戻れない)地域がありました。競合する相手がいると当然のごとく勝敗や闘争が生まれ、権利を主張しあい、損得勘定が生まれ、様々な線引きが行われてきました。そして、だんだんと共有したり分かち合うというような精神が失われてきてしまった・・・。
そうした中で、人々の価値観、世界に対する認識や考え方、人生を送っていく中での意識の持ち方なども変化してきました。あらゆるものに名前をつけ、差異化し、分類して、それが誰のものであるか、何を意味するのか、一つ一つに定義や条件を付与してきたのです。さらに、科学や技術の発展も手伝って、多くの物理的・心理的な真実や法則が明らかになり、今その恩恵を現代人は受けているという側面はあります。しかしそれが行き過ぎたことで、今になってその見直しを余儀なくされていることも、また疑いようのない事実でしょう。
四柱推命の喜忌に限らず、そうした歴史を辿ってきた人類の幸福観には根底に二元論が横たわっています。常に幸不幸が一対となって機能している、というべきでしょうか。吉凶は不可分なもので、どんなに論理的に分析したところで繋がりを一刀両断することはできません。それなのに、それぞれが分離した、独立したモノやコトであるように見ている、そのことが問題だと思うのです。
最近の僕は、主観的とか客観的とかいうことに、ひどく懐疑の思いを抱いています。十年来、易やサビアンと向き合ってきて思うのは、本当の意味での主客の分離はないんじゃないかということです。ちょうど、“実体として観察者と現象が個別に存在しているわけではない”とする量子力学的発見を日常意識で確認しているような感じ。早い話、人はたぶん自分の見たいように見ているだけで、そのものの実相をありのままには見ていないんだと思うのです。世界は思い込みの産物というのは言い過ぎかもしれませんが、かなり錯覚(光の屈折のようなこと)を起こしている面があるのではないかなー、という気はします。
なので、四柱推命の喜忌判定についても、冒頭にも書いたように実際のところ僕の本意とは逆行したものだったりします。単なる一般論を取り入れただけに過ぎない、といえば責任転嫁になりそうですけど。個人的には喜忌にこだわるよりは、例えば五行の割合や干支の関係から「この時期、どういう状態になりやすいか。また、その場合、どういう考え方や生き方をするといいのか」を徹底して考えた方が良いのではと思います。
例えば、五行とBigFive理論との関連性(→参考:「パーソナリティの主要五因子と四柱推命~陰陽五行と通変~」」を基に、より深く掘り下げて研究してみるとか。たぶん、そうした試みの方が役に立つのではないかと考え、思索中です。これからの時代、おそらく占星術や易・四柱推命・紫微斗数などは、個々の内観の手段として活かされるようになると予想されるので、そうした普及が加速するように占術それ自体の使い方を大本から考え直す必要があると思います。
四柱推命白帯には、一応ですが喜忌判定機能が付いています。
だけど今思うと、この判定機能は失敗作だったのではないか、という気がしています。
そもそも、喜忌とは何なのでしょうか?
「喜忌が肝要」という一般論に沿って作ってはみたものの、実際には自分自身でさえ、その根幹に対する理解が得られていない状態での作成だったこともあり、いま一つ明確さに欠けているような気がしてなりません。
今、「根幹」という言葉を使いましたが、要するに「喜び」と「忌み(不快に思う)」、あるいは「楽」と「苦」、はたまた「ポジティブ」と「ネガティブ」・・・表現が何であれ、相対的な概念を扱っていることを思うと、いったい何をもって喜びとし、何をもって忌み(嫌うもの、恐れて避けたいもの)とするのか、ということを考えざるを得ないわけです。
本来、「喜び、楽しみ、幸せ」と「苦しみ、忌み嫌うもの、悲しみ、不幸」とは陰陽のようなものです。ともに干渉し対立するものでありながら、裏では支え合っている、という不思議な関係性がある。なので、苦を避けたり忌み嫌うことは、裏を返せば、喜びに対する歪みや屈折をもたらすのです。
また、喜忌を見る上で基準が何かを考えることも、重要な視点だと思います。
おそらく一般論として喜忌を判じる時の基準は、「命式に対する五行の配合や干支を平常として、各時期での五行の増減や十干(通変)の関係性を考慮して決める」という感じのものじゃないかと考えていますが、もっと本質を突き詰めると果たしてどうなのか。
人の喜びや苦しみの感じ方を考えてみると、たぶん「ある時を、それ以外の時(主にこれまで生きてきた過去)と相対的に比較してみて、嬉しいのか辛いのか」を意識するのだと思います。だとすれば、どちらを感じるにしても固定的なものではなく(そもそも感じ方ということ自体、主観的で個人的なものですよね)、常に変動するものだということに思い至ります。
(※ここから例え話。読むのが面倒なら飛ばして下さい。)
抽象的な話では分かりづらいので、例を挙げて考えてみます。以下は長い作り話です。
そうですね、例えばAさんという独身男性のサラリーマンの方がいたとします。比較的真面目なタイプで、あまり派手なことを好まない性格だとしましょうか。また、その方の月給が手取り20万円だったとして、その月給で既に何年か過ごしてきていると仮定します。
このAさんは、手取り20万円の中から、家賃やら税金やら携帯代やらの必要経費を払っていくと、実質、一ヶ月の間で自由に使えるお金は10万プラスアルファくらい。その上、この方は堅実な方で将来のために貯金もしていこうと考えているため、さらに1万か2万かを自主的に蓄えに回している、としましょうか。そうなると、現実的には10万円で日々の家計をやりくりしていかなければなりません。
ですが、こうした10万円生活を何年も続けていると、怖いものですが「慣れ」が出てきて、そうした日常をことさら苦としなくなる傾向が強くなってきます。
まあ、時にはどうしても欲しいものがあって衝動的に買ってしまったり、予期せず電化製品などが故障すれば、修理に出したり買い換えたりするような急な出費もあります。それでも、普段から行き過ぎないように気を使った生活を送っている限りは、「どうにかこうにか対処できる」という半ば諦めにも似た自信すら出てくるものです。
ところが、そんな生活を送っているAさんに、ある日、昇進&昇給の話が舞い込んで来ました。日々仕事に情熱を注いできた功績を認められたのか、経験や技能を買われたのか、ともかく少し責任のある立場に就かないかというわけです。
さて、ここでAさんは迷います。自分の働きや能力を評価してくれたという素直な喜び、また昇進による給料アップにも惹かれます。一方で、他のメンバーを引っ張っていくリーダーシップが自分にあるのかとか、部下がミスを犯した時に自分が責任を負うことになるのは嫌だなとか、これまでのような自由気ままな生活が送れなくなるかも、といった不安も同時に心に去来します。
喜びと不安とは表裏一体で不可分ですから、そうした感情が湧き起こるのも当然です。喜びの影に苦悩あり。物事の表も裏も併せて見なければ、正しく真実を見ているとは言えないのだから。
ま、それはともかく、Aさんはあれこれ自問したり周囲に相談した結果、昇給の話を受けました。
これによって給料も以前の1.5倍、つまり手取り20万円から30万円に上がったとしましょう。これで自由に使えるお金が増えました。将来のために預貯金をしてきた彼にとって、月給が底上げされることは喜びであるはずです。また、自分の実績を認められた上、より技能を発揮しやすいポジションにつくことができて気分的にも嬉しく感じています。
しかし、その反面で立場上の交際費や仕事上のストレスも、今まで以上に掛かるようになってきたことに、少なからず動揺もしています。これは今までにはなかったことなので慣れるまでは一苦労です。さらに、手取りが10万円増えたことで、以前の自分を思うと信じられないような欲が出てきたことにも気が付き始めました。
昇進前ならば、意識的にセーブしていたことも、どこかタガが外れがちになっています。「自分へのご褒美」や「気分転換」として認めていた贅沢(買い物でも料理でもギャンブルでも何でもいい)の回数が増えたり、よりグレードの高いものを欲したり、あまり要不要を考えないで買ってしまって後で後悔するケースが増えてきたのです。また、少し顔が利くようになったことで、無自覚の内に居丈高になって、部下にキツク当たってしまうようなことも出てきました。そんな日の夜は自己嫌悪して、「こうした感情や欲は、以前の自分ならば持ち合わせてなかったはずなんだけどな・・・」などと卑屈になってしまったり。
それでも、そこそこ責任感の強い彼は、任された仕事や自分にしかできない役割を果たそうと頑張ります。それは充実感と生きている心地の良さを味わわせるもので、矛盾した感情を持ち合わせながら、現状がもたらす幸せも同時に感じていました。
こうした日々を送る中、交際が広がった影響で比較的好みの異性(Bさん)と知り合う機会を得たAさん。関係が発展してお付き合いする運びになり、また互いにそこそこの年齢だったこともあり、その後しばらくして結婚の話が持ち上がってきました。ところが現実の進展とは裏腹に、これまで仕事一筋で特に結婚や家庭を持つことを考えていなかったAさんは、いざ現実に直面すると戸惑いを隠せません。もちろん、好きな人と一緒になることや、親になって家庭を持つことの期待も大きいわけですが、なかなか踏ん切りが付きません。
そんな状態で煩悶としていると、同僚の女性(Cさん)から心配され、つい相談に乗ってもらっている内に、あろうことか気持ちが揺れ始めてしまいます。決して浮気心で話しているわけではないのに、相手の優しさに寄りかかってしまう自分がいる。「もしかしたら俺はこの人を好きなのかも。それにCさんも何だか自分に気があるような・・・?」――そんなことさえ、ふと考えてしまう。
そんなAさんの気持ちの変化を感じ取ったのかBさんは不安になり、いつしか「浮気をしているのではないか」と疑いの感情をもつようになってしまいました。もちろん、それは自分の思い過ごしなのかもしれないと考えるも、Aさんの態度がよそよそしさを増しているのを見るにつけ、Bさんは関係があやふやになってきていることを実感し始めます。
小さなヒビが徐々に広がり、それが亀裂と化すと、とうとうCさんを巻き込んだ三角関係に発展。Aさんは自分の態度をハッキリと決められず、そんな様子を見たBさんにもイライラが募り、またCさん自身も内心Aさんを好きだったために複雑な心境に。こうした膠着状態がしばらく続いた結果、結婚の話はもちろん、AさんとBさんの交際そのものも気まずいものとなり、期せずして別れてしまうことに。また、二人の関係に傷を作ってしまったと自責の念に駆られたCさんもAさんと顔を合わせ辛くなり、次第に自然消滅の道を辿って行きました。
生来的に生真面目であったAさんだけに殊のほか意気消沈してしまい、何となく仕事にも付き合いにも気が乗らなくなってきて、つまらないミスをしてしまうことも度々。最初の内は同僚も励ましてくれたものの、気持ちの乱れが生活の乱れを呼び、お酒に頼ったり、憂さ晴らしに興じることが増えてくると、だんだんと人徳を損なってしまったようでした。こうした状態を上役が放って置くわけもなく、Aさんは降格させられ、別の部署へと転属を命じられました。
一応、これまでの働きを踏まえて、手取りで月25万円近くは貰える仕事であったにも関わらず、長期間ではなかったとはいえ月30万の生活を経験したAさんにとっては、心ならずも不満を覚えてしまうのでした。それに、昇給したことで勇んで組んだチョット高額な車のローンも、この時にあっては想像以上の負荷となってしまい、女性関係での失敗に加えて、さらに心労が重なる事態になったのでした・・・。
(※ここから、また本論。)
――さて、長くなってきたのでこの辺で止めますが、案外こういう作り話に似た事例も少なくなかったりするのかもしれません。
誰しも“喜び”が恒久的ではないこと、幸福の裏に不幸が備わっていることは理屈の上では分かっているものですが、それを実感するのはタイムラグがあるせいか遅れがちで、「後悔先に立たず」の諺のような結果が彼方此方で起こっています。また、自分自身を振り返っても、思い当たる節が多々あります。
特定の時期、まあ、四柱推命では大運や年運辺りをよく使いますから、特定の10年は調子が良いとか、特定の年に結婚する可能性があるとか、昇進とは言わないまでも周囲や世間に評価される見込みが出ている等と示されることがあります。または単に漠然と、「この年くらいから運気が上向きになりそうですよ」とか。
ところが、現実は喜忌が入り混じった形で存在しているとしか思えず、ある年全体が喜であるとか忌であるなんていうことは、正直なところ言えないのではないでしょうか。まして大運や方運の喜忌を断じることに、一体どれほどの意味があるのか(たとえ大運を5年区切りにするとしても)と思ってしまいます。
こうした考えは、四柱推命における喜忌の概念を根底から崩してしまう恐れがあるため、あまり深く切り込まないほうがよいのかもしれません。それでもこういう面倒な話を書くのは、元々僕自身の中に「喜であれ忌であれ、そこに明確なラインを引くことは無理なのでは?」という意識があるからです。それは善悪の概念と同様で、絶対的・確定的な位置づけを見出すことができないからです。よく「人生万事、塞翁が馬」などと引き合いに出される通り、何がどうなってどうなるのか、そしてそれがもたらす因果と主観的な幸不幸を固定的に捉えることはできません。
僕も何度も書いているし、多くの人が綴るように、物事の一時的な苦しみが良い意味での試練となって、当人の成長に一役買うケースがあります。「振り返って考えてみれば、あの時の大変さが今の自分の礎となった」と回顧するような状態です。それは凶事を経験した時に、いつまでもネガティブさに固執せずに、どこかで意識の方向転換を果たしたことに起因しています。それが周囲の人の働きかけのお蔭か、あるいは自分自身の大改革かは人それぞれですが、逆境や辛いことに負けないポジティブさをネガティブさにぶつけて相殺し、中和した結果かもしれません。
また、一方で何らかの幸せを感受したことで気持ちが浮かれてしまい、いつしか節操を失ってしまうというケースもあるわけです。分かりやすいのはロト6や宝くじで億単位の当選者になった人でしょうか。あるいはギャンブルでの大当たりでもいいです。そうした突発的な幸運は、大概その人の人生に大きな影を落としていきます。もちろん、高額当選しても日々の勤めを忘れず、謙虚な暮らしを続ける賢明な方もいるわけですが、突然の喜びに舞い上がって我を失ってしまう人のほうが圧倒的に多いでしょう。
僕がかつて「占いをギャンブルなどに使わないほうがいい」と事あるごとに述べていたのは、そうした事例を幾つか見てきたからです。賭け事に占いを持ち込むと、高い確率で性格的にも歪みが出ますし、勝敗の研究に凝って、一喜一憂のスパイラルから一層抜け出られなくなります。しかもそれは、仮に金銭的な利益を得ても、それを帳消しにして余りある時間の浪費と空虚さを伴うものです。お勧めできません。
話が逸れましたが、上記の例では、Aさんは自分の仕事が認められて昇進し、給料アップを得て生活に余裕が生まれました。しかし、同時に欲も深くなり、高まった生活の質を保とうとあくせくしたり、仕事へのやり甲斐は増したものの付随する責任にストレスを抱えるという矛盾も生じました(まあ、それ自体は立場が変われば誰でも苦労するものなので普通のことなのかもしれません)。可哀想なのは、せっかく結婚話まで出た相手とすれ違ってしまって、結局別れてしまったこと。(作り話の中で、ですが)
状況は人それぞれですが、幸せや喜びを感じれば、しかもそれが強く大きいほど、それに相対する形で落差を感じた時のショックも強く大きくなります。反対に、人がどん底にあれば、そこから這い上がっていくことは、それまでの辛さに比べたら全てが喜びに思えるはずです。どっちにしても、僕らは絶対の世界ではなく、陰と陽、光と影、女性と男性が混在する相対の世界に生きているのですから、完全な喜びや悲しみがあるとしても、それはホンの一瞬のことで、たとえ魔法のような高度な技術を使ったとしても永続することは叶いません。それが自然の理、宇宙の法則だと言い切ってもいいでしょう。
ちょっと論旨から外れるというか、遠回りな話になりますが・・・
現代社会は、多くの場面で比較や競争、合理的な割り切りによって成り立っています。他の大勢の人(または国や会社などの集団同士)と比べて少しでも優位になることがあれば、それが良しとされて賞賛されたり、武器として使えという世相。それは個々の肉体面でも、また感情や心といった精神面においてもです。個人主義だとか資本主義、あるいは自由経済主義というのか、その辺のことは勉強不足ですが、ともかくそういったシステムを強烈に推し進めてきたのが西洋の文化だという指摘は多く見聞きします。
もっとも、今となっては西洋も東洋も表面上は無いようなもので、世界全体として競争社会であり、生命ある存在としての“心の豊かさ”が戯言だと一蹴される雰囲気さえある時代になってしまっています。まあ、その心のゆとりをもたらすためにも、ある程度の経済的な安定が必要であることは確かなので仕方ない面もありますが、それでも様々な弊害が出ている昨今、やはり行き過ぎていることは否めないと思います。
国や地域を守るため、自社の利益を出すため、競争相手を出し抜くため、人より優位に立つため――規模は違えど、そうした集団的意識に飲み込まれる形で教育を受け、また、個人自らもそうした心をあまり咎めることなく肯定する人生を送ってきている気がします。物事や関わる人に対して合理的であったり、分析的であったりすることは良い面もありますが、それも行き過ぎれば害をもたらします。また逆もしかりで、精神的な面を強調しすぎれば、それ相応の問題が浮上してきます。今の日本の“ゆとり教育”の弊害問題のように。(まあ、これに関しては、そもそも何をもって“ゆとり”と言うのか、その論点がズレていたのではないかという気もするのですが。)
数百年前、あるいは今から千年・二千年前でさえ、既に都市化や文明化が進んで止められない(農耕だけをしていればいい、という時代にはもはや戻れない)地域がありました。競合する相手がいると当然のごとく勝敗や闘争が生まれ、権利を主張しあい、損得勘定が生まれ、様々な線引きが行われてきました。そして、だんだんと共有したり分かち合うというような精神が失われてきてしまった・・・。
そうした中で、人々の価値観、世界に対する認識や考え方、人生を送っていく中での意識の持ち方なども変化してきました。あらゆるものに名前をつけ、差異化し、分類して、それが誰のものであるか、何を意味するのか、一つ一つに定義や条件を付与してきたのです。さらに、科学や技術の発展も手伝って、多くの物理的・心理的な真実や法則が明らかになり、今その恩恵を現代人は受けているという側面はあります。しかしそれが行き過ぎたことで、今になってその見直しを余儀なくされていることも、また疑いようのない事実でしょう。
四柱推命の喜忌に限らず、そうした歴史を辿ってきた人類の幸福観には根底に二元論が横たわっています。常に幸不幸が一対となって機能している、というべきでしょうか。吉凶は不可分なもので、どんなに論理的に分析したところで繋がりを一刀両断することはできません。それなのに、それぞれが分離した、独立したモノやコトであるように見ている、そのことが問題だと思うのです。
最近の僕は、主観的とか客観的とかいうことに、ひどく懐疑の思いを抱いています。十年来、易やサビアンと向き合ってきて思うのは、本当の意味での主客の分離はないんじゃないかということです。ちょうど、“実体として観察者と現象が個別に存在しているわけではない”とする量子力学的発見を日常意識で確認しているような感じ。早い話、人はたぶん自分の見たいように見ているだけで、そのものの実相をありのままには見ていないんだと思うのです。世界は思い込みの産物というのは言い過ぎかもしれませんが、かなり錯覚(光の屈折のようなこと)を起こしている面があるのではないかなー、という気はします。
なので、四柱推命の喜忌判定についても、冒頭にも書いたように実際のところ僕の本意とは逆行したものだったりします。単なる一般論を取り入れただけに過ぎない、といえば責任転嫁になりそうですけど。個人的には喜忌にこだわるよりは、例えば五行の割合や干支の関係から「この時期、どういう状態になりやすいか。また、その場合、どういう考え方や生き方をするといいのか」を徹底して考えた方が良いのではと思います。
例えば、五行とBigFive理論との関連性(→参考:「パーソナリティの主要五因子と四柱推命~陰陽五行と通変~」」を基に、より深く掘り下げて研究してみるとか。たぶん、そうした試みの方が役に立つのではないかと考え、思索中です。これからの時代、おそらく占星術や易・四柱推命・紫微斗数などは、個々の内観の手段として活かされるようになると予想されるので、そうした普及が加速するように占術それ自体の使い方を大本から考え直す必要があると思います。
偶然てあるのだなぁと思ったのですが、記事をアップしてくださったちょうどその前、私はネットで「大運 忌神の場合」と検索していたからですm(_ _"m)
確かにそうだなあと思いながら拝見していました。
私が検索をしていたのも、結論的には喜忌に左右されて本質を
忘れてしまっていたからかもしれないと思いました。
大運が忌だから、行運に喜がきても、大運喜行運喜の場合の人に
比べると、かなわないんだよなぁ・・・と半ば凹み気味になったりすることもありました。。
結果に振り回されそれを知り、そして原点回帰しようという気持ちになりつつあるのが今の自分です。なので有り難い記事をこの時期にアップしてくださって大変感謝しております。
喜と忌、人生の土台として活かす、生かす・・・知ってもうまく付き合えるところまで持っていけたらと思っています。喜も忌も有り難い大切な人生の一部として受け入れたら、喜忌を知っても人生豊かにできるようになれそうな気がしました。なりたいと思いました。
いろいろなことをうまく書けなくて、書けば書くほど記事に対して遠いことになってしまい申し訳ないですが、喜忌は私にとっては知る嬉しさをくれました。
ありがとうございます
と書きたかったのですが、コピペがうまくいっていませんでした。汗)
改めて。ありがとうございます。
だから、こちらこそ読んでくれる方々に「いつもありがとうございます」と言いたいです。kotokotoさんにもコメントを戴くたびに励ましてもらっています。ありがとうございます。
ところで、以前のコメントの中で「身内のパソを借りて「白帯」を見てみます」というようなことを書かれてましたが、見れましたか?
もし出力できないとか、エラーがあるようでしたら遠慮なくメールして下さいね。ではでは。