建交労長崎県本部は8月8日午前9時から、長崎市赤迫町にある全日自労の墓「敬朋」墓前祭を行いました。 主催者あいさつを行った中里県本部委員長は、「昨年7月7日、国連で核兵器禁止条約が採択され世界から核兵器をなくす道筋ができたが、日本政府は賛成しなかった。県本部は被爆地の組合として、安倍改憲を許さない3000万署名の目標を達成し先輩たちにも頑張っていることを報告できた。あらためて組合員のみなさんに感謝申し上げる」と述べました。今年は愛知県の建交労から届いた千羽鶴も一緒に飾ることができました。
日本宗教者平和協議会事務局長の森修覚さんと大分県宇佐市安養寺の住職林正道さんに読経をいただき、参加者全員が線香を手向け、先輩たちの御霊を慰め、平和を守る決意を新たにしました。
今年は、愛知の組合から届いた千羽鶴も飾らせていただきました。
敬朋の墓建立に至る経過(前県本部委員長 川崎ツタさんの資料から)
長崎は被爆地でもあり、失業対策事業で働く仲間の中には多くの被爆者がいました。妻子を失った老人、一人残った人、戦争で夫を亡くした人、被爆者は哀れでした。一人寂しく死んでいった人もありました。埋葬料では、弔いも出せず、長崎医大にその遺体を送りました。解剖がすんだ後は、手厚く葬ってくれるからです。
1975(昭和50)年3月「全日自労被爆者の会」を結成。同年9月、「引き取り手のない人の墓を作ってやりたい。そのために、墓地を提供して欲しい」と長崎市に要求書を出し交渉しました。全日自労の仲間からの募金はもちろんですが、奉加帳を持って各労働組合を回りました。
長崎市と2年間交渉した結果、1977(昭和52)年8月31日、この地赤迫町に墓碑を建立しました。医大に送った人たちの遺骨も受け取り、慰霊祭を兼ねて除幕式を行ないました。「敬朋」という墓碑銘は、当事の諸谷義武長崎市長が記されました。この「敬朋」には10人の組合員が眠っています。
「敬朋」の墓の銘板です。
愛知の組合から届いた千羽鶴は、「敬朋」墓前祭後、爆心地公園にある千羽鶴献花台にお供えしました。