関根からも報告がありましたが、先日の秋インカレ決勝で4年生は引退となりました。4年生最後のブログは、一応主将だった4512クルーの寺島です。長くなる気しかしませんが、最後まで見てくださると嬉しいです。
まずは、決勝の結果報告です。ご存じの通り、千葉大は15校中15位で大会を終えました。部としてあるべき姿を何も見せられなかったこと、本当に申し訳ありません。レースの中身はもちろん、それ以前のところで負けていました。いろんな人が感じていると思いますが、今回の秋合宿はチームとしてまともに機能しておらず、その結果がこの順位に表れたと感じます。それもこれも私が部の運営を間違えたからでしかないし、後輩には同じ過ちを繰り返してほしくないから、このブログを書きます。
目次
- お礼
- 主将として
- 1人のヨット部員として
はじめに、千葉大学ヨット部を応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。大会に出れないと言われるようなレベルの自分たちをそれでも指導してくださった監督やコーチ、OBOGの方々、予選校の自分たちと対等に話してくださった他大学の皆さん、合宿で差し入れをくださった皆様、リザルトを見てくださった皆様、応援ありがとうございました。皆様の支え無しに決勝進出なんてできませんでした。ありがとうございます。期待に応えることができずに申し訳ないです。また、コロナ禍でも練習や合宿をするために尽力してくださった大学の関係者の皆様にもお世話になりました。あまりにも窓口に通ったので、「まーたヨット部が来た」って思われていたことと思います。
本当に多くの方のお世話になりました。ありがとうございました。
ここからは、私がこのヨット部を運営していたときの考えと、その変化について書かせてください。後輩に向けて語るつもりで書くので、一人称や語尾がブレると思いますが、気にしないでほしいです。現役のみんなは、おまえの考えなんか知ったところで参考にするもんかって思うんだろうけど、反面教師ってやつだと思ってほしい。
主将として【最低なキャプテンの言い訳】
私の部活運営の根底にあったのは、「人が辞めない」部活でした。入部当初16人いた部員は、半年後のインカレを挟んで9人になりました(引退した4年生は2人なのに、です)。その原因は、負荷に耐えられなかったことが大きかったと思いましたし、だからこそ負荷をかけすぎないこと、メリハリつけることを意識していました。漫然とした練習はさせないという思いを持って主将になりました。
主将になった際、千葉県選手権を今の2,3年生のデビュー戦として明確に位置づけ、そこに向けて練習する意識を共有しました。これもメリハリというか、短期的な目標が部活を活性化するのではないかという考えの結果です。俺が1、2年生の時の千葉県選手権は、そんなたいそうなレースじゃ無く、消化試合みたいな雰囲気が漂っていました。だから、今の後輩が「まずは千葉県選手権」って口にするのを見ると、少し嬉しくなります。それだけじゃなく、練習メニューも少し工夫しました。覚えてないと思うし意味も大して無かったんだろうけど、上寄せの練習したこともあるし、タッチ・ザ・ラインしたこともある。タックレースもやったっけ。確実に何かを学び、刺激のある練習にしたかったし、ある程度うまくいっていたんじゃないかな。
でもそのあとの就活のブランクが大きすぎました。春イン直前に就活が終わって、レスキューに乗ってすべりを見たとき、埋まらない壁ができてしまったことを感じました。俺はあの南風では乗れないと思いました。それに加え、練習も一変していました。とにかく走り。俺が冬にやってきたことは跡形もなく消え去っていた。そうすると、別の不安が強くなってきた。
「俺が主将でいいんか?」
ボートスピードを改善しようとして優生とばかり乗ったけど、やっぱり啓太の方が速かった。そうすると、俺が言うことに耳を傾ける人は当然減ってくる。自分が就活で部を空けたことが招いた結果であり、自業自得でしかない。合宿が始まってからも、俺は春合宿の雰囲気を知らないから、どういう立ち位置が良いのかずっと模索していました。初めに小岩井さんにも言われたとおり、ヨット以外のこと、例えば合宿所のことやコロナのことを気にかける役を目指したけど、約束事が少なすぎて全く機能しなかった。いつ、誰が何をやるのかが全く共有できていなくて、常に誰かに任せきりにしてしまった。
でも、俺だって何の考えも持たずに主将をやっていた訳ではないです。俺は、マニュアルや約束事が強すぎて思考停止に陥ることが嫌だった。例えば、一昔前の房総やほたては、先輩が作ってくれたマニュアルを踏襲し、自分たちがエンジンのことを詳しくなるという気概はあまりなかった。会計帳簿もなかった。何か違うよなって当時も思っていた人がいたと思います。でもそれが先輩から受け継いだものだからって理由だけで、疑問やモヤモヤが放置されて続いていくのが嫌だった。だからテンダー係に口酸っぱく「テンダーのことはテンダー係が一番詳しくなってほしいし、その文化を後輩に受け継いでほしい」って伝えたと思うし、啓太に会計帳簿(自分1人で作った)を引き継いだ際も「やりやすいようにアレンジしろよ」って言った。一つの係に最低2人おいたのも、議論が生まれるためのアイデアだった。
この結果が今年のチームでした。簡単に言うと、全体としての約束の少なさが裏目に出てしまい、人任せで責任が分散したチームになってしまいました。特に3年生にはあまりにも多くのフラストレーションを溜めさせてしまった。言われるまでもないと思うけど、改めて俺が主将をしていた反省と、俺の経験からの忠告です。
1.約束事を増やす。決まり事がないチームは機能しなかった。これは俺のミスです。ごはんの前にみんなで合宿所を掃除をするとか、そういう類いのことまで、範囲は多岐に渡ります。
2.役割分担、仕事の割り振り。さっきのと似て非なること。「何時までに○○をやる」という約束があったとしても、そういう仕事が誰かに集中してしまうと、そこから部が歪んでいく。例えば、掃除するっていう約束があったとしても、誰がどこをやるのかまで決めないと始まらないよね。
3.成果の確認。ちゃんと掃除したのか確認する。これがないと、約束事は続いていかないと思ったし、続かなかった。ミスへの対処も含まれるかな。
これが部の運営についての今年の、俺のチーム作りの反省です。最後は、みんなが部を変えていくうえでの忠告というか、アドバイスです。
部を変えないといけない、変わらないといけないって強く決めてると思うんだけど、これがなかなか難しいんです。なんでかっていうと、「自分が決めて良いのか?」ってみんなが思ってしまって、萎縮しがちだから。俺も夏合宿にそう思った場面は何度もあるし、みんなもそう思って言い出せない場面があったと思います。それが続くと、チームは変わっていけない。この状態を脱するためのアドバイスとしては、仲間を見つけることです。うまくいっていないと思う部分があるのなら、それを先輩・後輩や同期に愚痴ってみる。そしたら、力になってくれるかもしれないし、何か意見をもらえるかもしれない。幸い、今のみんなは交流がすごい盛んで、この点については心配していません。だから、どうか、どうか不満をため込まないでください。夏合宿の時みたいに誰かが爆発する状況を、どうか未然に防いでください。悪くなった雰囲気を良くすることが難しいこと、今回の夏合宿を経験したみんななら分かると思います。1人を作らないでください。
これが俺が部の運営についてみんなに伝えたいことの全てです。俺が主将としてやったことは、自滅によってほとんどがおじゃんになり、最後はほとんど裏目に出て大失敗に終わりました。後輩のみんなに気安く「ありがとう」なんてまだ言えないです。こんな何もできないキャプテンで、ひどい合宿とチームにしてしまって、本当にごめん。私の中でこの経験は苦いものとして残り続けるでしょうし、しばらく一切のリーダー的役職からも離れると思います。
【1人のヨット部員として】
私もみんなと同じように、良い時期と悪い時期の繰り返しでここまで来ました。みんなが共感できることがあったら良いなと思って綴ります。
《良かった時期》
①2年生の夏にコロナの活動制限が解除されてから3年生の春休みまで
初めての後輩ができる新歓から始まりました。とにかく、ヨットって楽しいんだよってことを伝えたくて新歓したし、自分が後輩と乗るときも楽しさを前面に出していました。技術の面でも、春インカレのレーメンを獲得するために毎回練習が楽しみで仕方なかった時期です。ほぼ毎日7時半に来て、4507の整備や準備をしていました。結局この春インは中止になったし、開催されても出られたかは分からなかったけど、啓太や珠稀ちゃんと乗ってたこの時期は本当に楽しかった。引退前の俺からは想像つかないと思うけど、俺にもこういう時期がありました。
②部内レースで優勝した3年の5月頃
①の続きに見えるけど、春休みの後半は俺1人がモチベーション高くて、みんながついてきてないことに薄々気づいていたから、少しやる気が低下していました。それが吹き飛んだのが部内レース。春休みに自分が強化してきたことは間違ってなかったってことが結果で表れたと感じました。
《悪かった時期》
①引退前の夏
みんなにはごめんなんだけど、圧倒的にこれ。信頼を失っていたこと、それなのに主将であることの辛さは今までに味わったことはなかった。自分が何を言っても部を変えるまでには至らないし、自分の提案よりも他の人のアイデアの方が良いものだった。でもそのいいアイデアが徹底されていないことにも気づいていながら、その不和を顕在化させるだけで解決することはできない自分は、行動することはできなかった。ただ俺がもっとヨットが上手で一目置かれていたら、話は違ったと思う。
②1年生の秋から冬
16人だった部員が秋イン後に9人になった時期です。みんな疲れと人数低下から元気がなく、練習は1艇か2艇でやることがほとんどでした。3艇揃ったのは片手で数えるほどでした。授業ブッチして新木場からお台場まで歩いていろんなことを考えた日もあります。何を目指してヨットやっているのか、分からなかったです。
誰にだって良い時期と悪い時期があると思います。ずっと意識高くできる人なんて、いる方が珍しいと思います。一応4年間続けた身としてみんなに言えることは一つだけです。
意識を高く保つことは難しいです。でもそれ以上に、下がってしまった意識をもう一度上げることはもっと難しいと思います。だから、そんな人がいても見捨てないでほしい。誰だって、頑張れたらそうしたい(ちなみにこれはセカオワの『バードマン』って曲の歌詞です。興味あったら聞いてみて)。頑張ることが難しいのに足を運ぶって、本当にすごいことです。そういう時期が来たときにどう乗り越えるかは分からないけど、やる気がないからって辞めちゃうのはもったいないと思う。何かを始める決断は勇気が要るけど、それを続けるにはもっともっと強さが必要でした。だから、モチベが下がっても、そんなものだと思って受け入れちゃってほしいです。個人的な対処法としては、これも誰かに聞いてもらうのが一番なのかなって思います。
自分は、ゼミと就活で3年生からはまともにヨットと向き合うことができませんでした。その結果、ヨット部の方は大きなガタが来てしまった。でも、大学時代に対してはなんの後悔もありません。文・武の両方で結果を出すことを目標にしてヨット部に入って、武の方は失敗した感が強いけど、その理由も、自分の弱さも知れた。この経験ができたんだから、ヨット部に入って、形だけでも続けて良かった。
これで寺島の引退ブログを終わりにします。最後まで読んでくださり、ありがとうございました。今後の千葉大ヨット部も、どうぞよろしくお願い致します。後輩のみんなに合わせる顔はないけど、ずっと応援しています。