明治における宝満修験の解体を語る前に
多少、整理しておくべき、と思うことを少々。
江戸時代の宝満山伏の経済環境について。
山は基本的には筑前黒田藩の 支配下にあり、
そこに住まう山伏たちは充、不十分は別として
禄(扶持)を藩から受けていました。
その経過を黒田藩の分限帳から拾ってみましょう。
『元和九年知行高帳』
「一 弐重五石 三笠郡 宝満山」
『寛永知行役帳』
「 同(知行高)弐十五石
一同(役高)弐分五厘 寶満山」
『文化十四年分限帳』
「一 五十石 竈門神社
楞迦院」
※楞迦院は江戸時代宝満二十五坊の座主
『慶応分限帳』
「○ 五十石 竈門神社 御笠郡
長政公より元和四年二月二五日弐拾五石御寄付
綱政公より元禄九年正月弐拾五石加増
天台宗 楞伽院」
これによって江戸時代は前期には25石、中期以降は
50石が黒田藩から宝満二十五坊の楞迦院を窓口として
支給されていたことが分かります。
宝満山近世坊跡(西院谷)の石垣
多少、整理しておくべき、と思うことを少々。
江戸時代の宝満山伏の経済環境について。
山は基本的には筑前黒田藩の 支配下にあり、
そこに住まう山伏たちは充、不十分は別として
禄(扶持)を藩から受けていました。
その経過を黒田藩の分限帳から拾ってみましょう。
『元和九年知行高帳』
「一 弐重五石 三笠郡 宝満山」
『寛永知行役帳』
「 同(知行高)弐十五石
一同(役高)弐分五厘 寶満山」
『文化十四年分限帳』
「一 五十石 竈門神社
楞迦院」
※楞迦院は江戸時代宝満二十五坊の座主
『慶応分限帳』
「○ 五十石 竈門神社 御笠郡
長政公より元和四年二月二五日弐拾五石御寄付
綱政公より元禄九年正月弐拾五石加増
天台宗 楞伽院」
これによって江戸時代は前期には25石、中期以降は
50石が黒田藩から宝満二十五坊の楞迦院を窓口として
支給されていたことが分かります。
宝満山近世坊跡(西院谷)の石垣