宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)

大宰府の北東に聳える宝満山の歴史的価値を掘り起こし、山の保全を考える会です。

宝満山の江戸時代の禄高

2008-05-17 | Weblog
明治における宝満修験の解体を語る前に
多少、整理しておくべき、と思うことを少々。
江戸時代の宝満山伏の経済環境について。

山は基本的には筑前黒田藩の 支配下にあり、
そこに住まう山伏たちは充、不十分は別として
禄(扶持)を藩から受けていました。
その経過を黒田藩の分限帳から拾ってみましょう。

『元和九年知行高帳』
「一 弐重五石 三笠郡 宝満山」

『寛永知行役帳』
「 同(知行高)弐十五石
 一同(役高)弐分五厘 寶満山」

『文化十四年分限帳』
「一 五十石 竈門神社
       楞迦院」

※楞迦院は江戸時代宝満二十五坊の座主

『慶応分限帳』
「○ 五十石 竈門神社 御笠郡
    長政公より元和四年二月二五日弐拾五石御寄付
    綱政公より元禄九年正月弐拾五石加増

       天台宗 楞伽院」

 これによって江戸時代は前期には25石、中期以降は
50石が黒田藩から宝満二十五坊の楞迦院を窓口として
支給されていたことが分かります。

宝満山近世坊跡(西院谷)の石垣