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岩手県 陸前高田市立博物館③軍配型骨角器 弓矢状配石遺構 玉山金山

2023年12月25日 12時22分53秒 | 岩手県

陸前高田市立博物館。岩手県陸前高田市高田町字並杉。

2023年6月13日(火)。

門前貝塚。南東の旧大野湾と西方広田湾内小友(おとも)浦の湾入によって形成された沖積低地北岸の台地上にあり五ヵ所の小貝塚が点在する。標高35m。

縄文時代中・後期の遺跡後期初頭の門前式土器の標式遺跡でもある。明治中葉と昭和29年(1954)・同46年に発掘調査された。貝層は厚い所で50㎝ほどで、全体的に3、40㎝の所が多い。土器は縄文時代中期末の大木9式土器後期初頭の関東称名寺・堀之内式併行、門前式土器(四つの中空把手、二段口縁・連鎖状隆起線文・磨消縄文など)が出土している。

平成元年の発掘調査では、弓に矢をつがえたような形に石を並べた「弓矢状配石遺構」が発見された。最大幅7m超の大きな配石遺構は、縄文時代後期に台地の上の集落や貝塚に対し、海に面した低いところに作られ、矢の先は広田湾に向けられている。海からの魔物の侵入を防ごうとした遺構であると考えられている。

軍配型骨角器。国史跡・中沢浜(なかざわはま)貝塚出土。

軍配型骨角器は、日本国内で1点しか発見されていない。

国史跡・中沢浜貝塚は、陸前高田市広田町にある縄文時代の貝塚遺跡である。岩手県南部、大野湾と広田湾にはさまれた広田半島の南端部の丘陵に位置する。

1.8~3mの層から石器、土器、骨器、獣骨などが出土しているが、日本でも有数の多数の人骨が出土した貝塚である。1907年(明治40)、野中完一の調査で縄文時代晩期の人骨が17体出土。その後の調査によって、縄文、弥生、平安時代と長い期間にわたる複合遺跡であることがわかっている。

貝輪を腕につけた状態の人骨や、死んだ乳児を納めた深鉢の土器などが全国で初めて発見され、1997年(平成9)には、琥珀(こはく)で作った小玉を身につけ、膝を折り曲げた人骨が発見されるなど、これまでに40体以上が発見されている。

 

交易の拠点だった陸前高田市。

陸前高田市を含む、宮城県沿岸北部から岩手県釜石市の一部までを「気仙地方」とよぶがこの「気仙」という言葉は今から約1200年前に初めて登場したという。

陸前高田市高田町の小泉遺跡からは8世紀~9世紀にわたる大量の墨書土器が出土した。中でも「厨(くりや)」と書かれた特別な墨書土器は古代官衙(かんが=役所)関連の施設があった可能性を示唆している。このことからも当時の気仙地方は、北方交易の拠点として栄えていたことがうかがえる。

玉山金山

気仙地方の金山は古代からその存在が広く知られており、中国でも金は「日本のみちのくで産する」と伝えられていた。

玉山金山は、規模も大きく、産金量も多く繁栄を極めた史実と伝説に彩られた気仙地方の代表的金山で、天平年間(729~749)僧行基によって発見されたと伝えられている。東大寺大仏の鋳造に黄金が献上されたのをはじめ、奥州平泉の藤原氏の金色堂、豊臣家、伊達家の栄華の礎として、豊富な金が長年に渡り採掘されてきたという。

また、玉山金山を含む気仙地方の主要な金山は、マルコポーロの東方見聞録における「黄金の国」の記事や、日露戦争でも日本が埋蔵する金を抵当に欧米から借り入れをするなど、歴史の表裏に何度も登場する重要な遺構のひとつでもある。

金鉱床は、氷上花崗岩帯(チタン鉄鉱系)の南西部に胎胚し、白雲母ペグマタイト中に金が濃集している(日本最古のペグマタイト質金鉱床) 。玉山の語源でもある「水晶」は、良質で屈折率(透明感)が高く、両晶という特異な形でも特徴付けられており、正倉院に納められている水晶製の数珠も、玉山金山の水晶であるという説もある。

陸前高田市立博物館を見学後、北上市の樺山遺跡へ向かった。

途中、道の駅「種山ヶ原」に立ち寄ると、宮沢賢治ゆかりの種山ヶ原が近くにあるということで、感慨にふけった。

岩手県 陸前高田市立博物館②気仙隕石 鳥羽源蔵と牧野富太郎