県史跡・下門岡(しもかどおか)ひじり塚(河野通信墳墓)。岩手県北上市稲瀬町水越。
2023年6月13日(火)。
樺山遺跡を見学後、北東近くにある河野通信の墓へ向かった。道が分からず、近くの自然葬施設で大体の位置を尋ねた。本道の脇道から脇道に道標があったが、道の様子が不安なので交差点付近の路肩に車を置いて歩いて近づいた。
聖塚(ひじりづか)は、時宗の開祖である一遍上人(1239-1289年)の祖父、河野通信(こうのみちのぶ)(1156-1223年)の墓所だと伝えられている。この墓所が地元の郷土史家司道真雄によって通信のものと同定されたのは昭和40(1965)年のことで、その4年後に岩手県がこれを指定史跡とした。
この墓は、土地の人々に昔から聖塚とよばれ、四角な檀の上に丸く土を盛り上げた上円下方の二段造りで表面を平らな石で覆い、堀をめぐらした、堂々とした造りになっている。
河野通信は伊予国(愛媛県)の名族の出で、鎌倉時代初期の武将である。壇ノ浦での源氏と平氏の最後の海戦では、水軍を率いて源義経に加わり活躍した。源頼朝の妻、政子の妹を妻とし、頼朝の側で仕えた。文治五年(1189)源頼朝による奥州藤原氏(平泉)討伐時、河野通信は長子通俊とともに従軍する。戦功により伊予国久米郡と陸奥国栗原郡三迫(サンノハザマ、のち葛岡村)を与えられた。
のちに伊予国の守護に任じられたが、後鳥羽上皇が、幕府から朝廷に政権を取り戻そうとして戦いを起こした承久の乱(1221年)で、通信は上皇側につき、破れた通信は江刺郡(現在の北上市南半部から奥州市北東部にかけての地区)に流された。
河野通信はこの地の北方に残る国見山廃寺の後身である極楽寺上台坊の庵を隠岐院と名付け、後鳥羽上皇御持仏(観音像)を礼拝。貞応2年(1223年)流謫後2年で死去し、この地に葬られた。河野本家はひとり幕府方に付いた子の河野通久によって辛うじて存続することとなったが、以後伊予国内での影響力は低下した。
時宗(じしゅう)を開いた孫の一遍(親は河野通信の子通広)は、祖霊巡礼の思いが強く、一族で奥州稗貫郡の領主であった河野通次(~1309年、通信長男通俊の二男通重の嫡子)の先導で奥州へ出立した。途中、一遍の叔父に当る通信二男の通政(信濃国広葉)、四男通末(信濃国小田切)の墓地に詣で「踊念仏」で鎮魂。陸奥国江刺では弘安3年(1280)秋、祖父通信の墓地にて転経念仏の勤行をする。
国宝『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)第五巻第三段には、河野通信の墳墓を囲んで僧尼が座して念仏している姿があり、塚の上部には薄と思われる草が2、3株ほど描かれている。このとき踊り念仏が行われていたと思われ、時宗教団では「薄(すすき)念仏」と称し、後年時宗最高の念仏行事となった。
「奥州江刺の郡にいたりて、祖父通信が墳墓をたづね給に、人つねの生なく、家つねの居なければ、只白楊の秋風に東岱の煙あとをのこし、青塚の墓の雨に北芒の露涙をあらそふ。よて荊棘をはらひて追孝報恩のつとめをいたし、墳墓をめぐりて転経念仏の功をつみたまふ」
えづりこ古墳公園。岩手県北上市北鬼柳。
河野通信の墳墓から江釣子古墳群(八幡支群)へ移動。江釣子古墳群の概要については、北上市立博物館で6月11日(日)に見学した。一帯は、えづりこ古墳公園になっており、西側に広い駐車場があるが、東側の小さい駐車場に駐車して、八幡支群を見学し、西方へ移動して、猫谷地支群を見学した。
八幡支群を見学しようと、公園に入るとカムイヘチリコホとよばれるドーム型の建造物と石碑があった。アイヌ語学者の知里真志保によると、江釣子の語源はカムイヘチリコホで、アイヌ語で「神々の遊び場」という。蝦夷(えみし)は一般的にアイヌのルーツの一つであろう。アイヌの前段階は縄文人・続縄文人・擦文人だが、古墳時代には擦文人は東北北部に多くいたとされる。奈良時代・平安時代前期にも一大勢力であったと思われる。終末期古墳の被葬者は「俘囚の長」とよばれ、朝廷に従った蝦夷とされるが、アイヌの祖先なのか、武士になる大和人なのか、混血なのか、定説はないようだ。
蝦夷(えみし)たちが眠る国史跡・江釣子(えづりこ)古墳群。
江釣子古墳群は北上川に注ぐ和賀川北岸の河岸段丘上に築造された古墳群である。東方の八幡地区に23基、中央の猫谷地地区に29基、西方の五条丸地区に81基、和賀町長沼地区13基の古墳の存在が確認されている。
これらの古墳は7世紀後半から8世紀前半にかけて造られたもので、直径6~15mの円墳が約 120基以上あり、勾玉(まがたま)、切子玉(きりこだま)、蕨手刀(わらびてとう)、直刀、馬具などが数多く出土している。
猫谷地地区の調査された5基は、横穴式石室を内部主体とする。奥壁に巨石をたて、側壁は河原石を小口積みし、羨道端を河原石で閉塞する。石室上に天井石を遺存していたのは1基のみである。最大の石室は全長3.55m、最小の石室は全長1.2mをはかる。いずれも小規模な石室であるが控積みが顕著であり、床面に河原石を据えて側壁の立石を安定させ併せて棺台とするなど特色ある技法が見られ、羨道の前面に石敷の前庭を設けるなど、横穴式石室に伴う構造の一端をよく示している。
五条丸地区では、石室で調査されたのは31基、墳丘の形状が把握されたのは26基である。石室は、すべて横穴式石室であり、1基が4石室をもつ以外は、1墳1石室である。奥壁に巨石をたて、河原石を小口積みして側壁をつくり、羨門閉塞するのが一般であり、猫谷地地区でみられた側壁の立石例や床の棺台をもつ例は極めて少ない。石室は墳丘の中央に設けられ、全長5mに近いものから、1.5mという小さいものまであり、規模にかなりの大・小を見、また前庭を敷石する構造は稀であった。墳丘は円墳で、径4.5mから14m、周囲に幅1〜2mの湟をめぐらすが、羨道部の前には周湟をつくらず、墓道の存在を暗示している。
副葬品には切先太刀、蕨手刀、鉄鏃などの武具をはじめ、馬具・工具・装身具類、土器などが豊富に発見されている。
石室や墳丘の規模、構造に特色があり、遺物の多様さも顕著であり、東北地方屈指の横穴式石室を伴う古墳群として重要なものである。
八幡1号墳。
猫谷地14号墳。
猫谷8号墳。
猫谷地1号墳。石室。
江釣子古墳群を見学後、奥州市の道の駅「水沢」へ向かった。