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岩手県奥州市 黒石寺 蘇民将来祭り

2023年12月28日 11時47分45秒 | 岩手県

黒石寺(こくせきじ、くろいしでら)。岩手県奥州市水沢黒石町山内。

2023年6月14日(水)。

奥州市の道の駅「水沢」で起床。まず、蘇民将来祭りで名高い黒石寺へ向かい、8時過ぎに着いた。1980年代初めに、「まつり」や「民俗芸能」に関心を持った時期があり、東海地方や京都奈良各地を見学していた。その頃に、黒石寺の蘇民将来祭りを知った。

禊場のある瑠璃壺川(るりつぼがわ、山内川)。

黒石寺は、天台宗の寺院で、山号は妙見山(みょうけんざん)。本尊は、重要文化財で平安時代初期の在銘像である木造薬師如来坐像。

天平元年(729)行基菩薩の開山で、東光山薬師寺と称したが、延暦年間の蝦夷征伐の戦火にあい寺は焼失した。大同2年(807)坂上田村麻呂により飛騨(今の岐阜県)の工匠が方七間の薬師堂を再建し、嘉祥2年(849)第3代天台座主慈覚大師円仁が復興し妙見山黒石寺と改名した。

もとは修験(山伏)の寺であり、胆沢(いさわ)城鎮守の式内社である石手堰神社の別当寺として、盛時には48の伽藍があったと伝えられ、一帯には多くの寺跡がある。

弘長元年(1261)の野火、天正18年(1590)の兵火、そして天保11年(1840)の祭火、更には明治14年(1881)と火災にあい、伽藍の一切を焼失し、現在の本堂と庫裏は、明治17年(1884)に再建されたものである。本尊は、薬師如来坐像で、胎内に貞観四年(862)の造像銘があり、古代東北の仏教信仰を伝える貴重な作例である。

蘇民祭(そみんさい)は、岩手県を中心に日本各地に伝わる裸祭りである。1000年以上の歴史を持つと言われる。岩手県内では毎年1月から3月にかけて複数の蘇民祭が行われ、岩手の蘇民祭の名称で国の選択無形民俗文化財として選択されている。

その中で最も著名なものは、日本三大奇祭ないし日本三大裸祭りの一つに数えられることもある奥州市の黒石寺蘇民祭で、東北地方への蘇民信仰の伝播を伺わせ、古代の姿を今に伝える貴重な民族的遺産である。

令和6年黒石寺蘇民祭は、2024(令和6)年2月17日(土)(旧正月8日)に実施されるが、担い手の高齢化と今後の担い手不足により、令和7年以降の黒石寺蘇民祭については実施しないこととなった。

蘇民信仰。

『備後風土記』の中に蘇民信仰の逸文が残されている。北海の武塔神(たけあきのかみ)が南海の神の娘をめとろうと旅に出、途中で日が暮れた。

そこに蘇民将来と巨旦将来という兄弟が住んでいた。兄の蘇民(そみん)将来は大変貧しく、弟の巨旦(こたん)将来は裕福で家や倉を百余りも持っていた。武塔神は弟に一夜の宿を借りようとしたが断られ、やむなく兄の家に泊めてもらった。兄は粟の飯でもてなした。

後に武塔神は八人の王子と帰る途中、兄の蘇民将来の所に寄り「かっての報いをしよう。おまえの子孫がその家にいるか」と問うと、「妻と娘がいる」と答えた。すると「茅の輪(ちのわ)」を腰に着けるよう命じた。その夜、神は蘇民と妻、娘を除いてすべてを滅ぼしてしまった。そして「私は須佐之男命(すさのおのみこと)なり、後の世に疫病あらば蘇民将来の子孫といい、腰に茅の輪をつける者は疫を逃れるであろう」と言った。武塔神・須佐之男命・牛頭天王・薬師如来は同一神仏であるという。

蘇民祭。裸の男と炎のまつり。

旧正月七日夜半から八日早暁にかけて行われる。厳寒積雪中の裸祭りで、災厄消除・五穀豊穣を祈願する。祭りは次の五つの行事からなる。

夏参り(裸参り、祈願祭ともいう・午後10時~)

厄年連中や一般祈願の善男善女がそれぞれロウソクをともした角燈を持って、瑠璃壺川(るりつぼがわ、山内川)で身を清め、「ジャッソー、ジョヤサ」の掛声で、妙見堂から薬師堂を三巡して、厄災消除、五穀豊穣を祈願する。

柴燈木登り(午後11時半~)

本堂前に、長さ五尺の松の木を井桁に積み上げて火を点じ、この上に登って火の粉をあびて身を清め、厄を払い一同で山内節をうたって気勢をあげる。柴燈(ひたき)護摩である。

別当登り(午前2時~)住職が、蘇民袋を従えて本堂に登り、厄災消除・五穀豊穣の護摩を焚く。

鬼子登り(午前4時~)数え年7歳の男児二人が麻衣をつけ、鬼面を逆さに背負い大人に背負われ本堂に登る。鬼子が本堂に入った後、住職が外陣に出て曼荼羅米(まんだらまい)をまく。次いで、外陣中央にある護摩台に燃えさかる松明が置かれ、鬼子がこのまわりを三度めぐる。

蘇民袋争奪戦(鬼子登り終了後~)将軍木(かつのき、ヌルデ)で作った長さ3センチ位の六角柱の小間木(こまぎ、蘇民将来護符)五升がぎっしりつまった蘇民袋を裸の若者たちが奪い合う。開始後まもなく袋に刀が入れられ中の小間木がとび散るが、この小間木を持っている者は、厄災をまぬがれるといわれ、競って手に入れようとする。更にカラになった袋の争奪戦が1時間あまり続き、審判役の親方が取主(最後に袋の首の部分を握っていた者)の判定を下して祭りは終わる。

古くは黒石寺に限らずどの蘇民祭も下帯を含め一切の衣服を着用しない全裸で行われていたが、問題となったため黒石寺においても2007年以降は下帯の着用が義務付けられ、全裸で行われて来た伝統が途絶えることになった。親方については同年以後も全裸を続けている。

2008年の蘇民祭に先駆けて、奥州市が作成したポスターについてJR東日本が上半身裸で胸毛の濃い男性が大きく写っているデザインを「女性客が不快感を覚え、セクシャルハラスメントに該当するおそれがある」として問題視し、駅構内での掲示を拒否した。

 

このあと、国史跡・胆沢城跡および奥州市埋蔵文化財調査センターへ向かった。