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岩手県奥州市 国史跡・胆沢城跡・奥州市埋蔵文化財調査センター①

2023年12月29日 14時46分30秒 | 岩手県

国史跡・胆沢城跡。奥州市埋蔵文化財調査センター。岩手県奥州市水沢区佐倉河九蔵田。

2023年6月14日(水)。

黒石寺を見学したあと、国史跡・胆沢(いさわ)城跡とガイダンス施設の奥州市埋蔵文化財調査センターへ向かった。国道4号線から分かれて北東に進み、胆沢城跡政庁跡付近を通過したが、復元遺構は目視できなかった。9時15分ごろに胆沢城跡に南隣する奥州市埋蔵文化財調査センターへ着いた。埋文センターを見学後、徒歩で外郭南門跡を見学した。

胆沢城は、平安時代初期の延暦21年(802)坂上田村麻呂が北上川と胆沢川の合流の右岸上の平坦地に造営し、大同(たいどう)3年(808)までには多賀城(宮城県)から「鎮守府」が移された古代城柵で、古代陸奥国の北半部を統治する機関であり施設であった。

北上川中流域の「胆沢」の地が史上に現われてくるのは、朝廷の東北経営の北進に伴い、8世紀後半の宝亀7年(776)のことである。この時期は、律令政府の攻撃目標が陸奥国最大の蝦夷(エミシ)勢力の拠点「胆沢の地」にしぼられてきた段階である。胆沢は「山海(さんかい)二道」の奥地(栗原方面の山道(さんどう)と北上川流域の海道(かいどう)が北方で合流するという意)と認識されていた。

これ以後、延暦20年(801)まで、古代国家と阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)を中心としたエミシ軍との戦いが展開する。

胆沢城の文献上の初見は『日本紀略』にあり、802年(延暦21年)1月9日に征夷大将軍の坂上田村麻呂が、造胆沢城使を兼任し、陸奥国胆沢城を造るために征服地に派遣されたことを伝える。11日には東国の10か国、すなわち駿河国、甲斐国、相模国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、信濃国、上野国、下野国の浪人4,000人を胆沢城に配する勅が出された。

4月15日に、田村麻呂は蝦夷の指導者阿弖流為(アテルイ)の降伏を報じた。当地方の軍事首長層であった阿弖流為、母礼は同族500余人を率いて投降し、その後2人は京に押送され、同年8月河内国椙山(すぎやま)(大阪)で処刑されたことで、胆沢エミシの抵抗が終了した。

朝廷は、胆沢城造営の翌年、再度田村麻呂を遣し、志波城(しわじょう・現在の盛岡市)を造営した。840m四方の志波城の方が規模は大きく、当初はさらなる征討のため志波城を主要拠点にするつもりだったと推測されている。しかしまもなく征討は中止され、志波城はたびたびの水害のため812年(弘仁3年)頃に350m四方の小さな徳丹城(とくたんじょう・現在の矢巾町)を新たに造営して移転した。これによって後方にある胆沢城が重要視されるようになった。

815年(弘仁6年)からは軍団の兵士400人と健士300人、計700人が交代で駐屯することになった。兵士は60日、健士は90日の交替制によって常時700の兵力を維持した。

胆沢城は10世紀後半ごろまで約150年にわたり鎮守府として機能したが、その権威は形骸化していき、俘囚長・在庁官人の安倍氏ら在地豪族の勢力が伸長していった。

胆沢城の規模と構造。

胆沢城の全体の面積はおよそ46万㎡(東京ドームが9つ入る大きさ)。高さ約4.2m、一辺675mの築地(ついじ)とその内・外に掘られた幅3~5m、深さ1~1.5mの溝で方形に囲まれていた。築地は、土を突き固めて造る土塀のことで、幅2.4m、高さ4.2m、総延長2.7kmの築地が、胆沢城の周りを囲んでいた。

中央南寄りに一辺90m四方の塀で区画された政庁域、その脇に官衙や厨などが配置されていた。

胆沢城には、鎮守府の最高責任者である将軍(1名)、庶務や施設の管理を行う府掌(2名)、将軍を助ける軍監(1名)と軍曹(2名)、戦いや日常の吉凶を占う陰陽師(1名)、大弓を指導する弩師(1名)、病気の治療や医術の指導にあたる医師(1名)らの役人や、多くの兵士が配置されていた。

胆沢城司としての将軍の職掌は、蝦夷支配では、朝廷に降伏したエミシをもてなす儀式である饗給(きょうごう)、征討、斥候」、律令制による公民支配では、柵戸移配、郡郷制施行であった。

政庁は、大事な儀式を行う胆沢城の中心施設で、饗給(きょうごう)や災いをはらう仏教の儀式などが行われた。

胆沢城には、日常の事務や行事を担当する官衙(かんが、役所)が政庁域の周辺にいくつか配置されており、各官衙は溝や柱列によって仕切られていた。

北方官衙は、九蔵川を利用した物資の搬入を管理。東方官衙は、儀式に関係のある役所。厨は、食料の管理や調理を担当し、宴会の料理を用意した。

奥州市埋蔵文化財調査センター2階から胆沢城跡・南大路。

南大路と外郭南門。

胆沢城の正門である外郭南門(東西14.8m×南北7.2m)から政庁に向かう北への大路上には政庁前門(東西12m×南北5m)と政庁南門(東西3.4m×南北2.4m)の2つの門があり、これらの門を通らなければ政庁正殿へは行くことができなかった。特に政庁前門は東北古代城柵では見られない、胆沢城特有の施設であった。

2019年、外郭南門両脇の築地塀と南大路の一部が復元され、胆沢城跡歴史公園として開園された。

伯済寺遺跡

伯済寺遺跡は、胆沢城跡から南約400m付近に位置する胆沢城と同時代の遺跡で、大型掘立柱建物群東・南側の区画施設を検出した。2005年、伯済寺遺跡から墨書土器に「政所」の文字が書いたものが見つかり、有力官人が城外の自分の邸内で執政していた可能性が強くなった。

土器のほかに紡錘車や鉄製の馬具などが出土した。国指定史跡「胆沢城跡」に関連する遺跡であるとして、平成23(2011)年に追加指定された。

伯済寺は、慈覚大師が嘉祥年間に開山したという。中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山の高僧慈覚大師円仁によって開山されたといわれている。

岩手県奥州市 黒石寺 蘇民将来祭り