青森県立美術館。青森市安田近野。
2022年9月29日(木)。
棟方志功(むなかた しこう)、[1903-1975]。
1903(明治36)年、青森市に鍛冶屋の三男として生まれた棟方志功は、幼い頃より絵を描くことを好み、ほぼ独学で油彩画を手がけるようになります。18歳の時、文芸誌『白樺』に掲載されたゴッホの《向日葵》を見て感銘を受け、油彩画家を志して、友人の松木満史、鷹山宇一、古藤正雄とともに美術サークル「青光画社」を結成、展覧会などを開催しながら絵画について研究を重ねます。
1924(大正13)年に上京して帝展入選を目指しますが、落選を繰り返します。セザンヌなど後期印象派を学んだことが感じられる《八甲田山麓図》は当時の作品です。一方、この頃に「国画創作協会第5回展」に出品された川上澄生の《初夏の風》を見て感銘を受け、木版画を制作するようになり、1928(昭和3)年には日本版画協会展において初入選を果たし、また同年、油彩画《雑園》で念願の帝展初入選も果たします。
《星座の花嫁》に代表されるこの時期の棟方の版画は、川上澄生の影響を強く感じさせるものでしたが、その後、1933(昭和8)年の《萬朶譜》、1936(昭和11)年の《大和し美し》といった代表作を制作、黒と白を基調とした独自の表現スタイルを見出します。特に《大和し美し》が「第11回国画会展」に出品された際、陶芸家濱田庄司の目にとまったことをきっかけに、柳宗悦の知遇を得、その後、民芸運動の作家達との交流の中で仏教や古典文学等の知識を深めながら、より強固な独自の表現を切り開きました。
1938(昭和13)年には謡曲「善知鳥」に題材をとった《勝鬘譜善知鳥版画曼荼羅》で「第2回新文展」の特選を得ましたが、これは官展において版画が受賞を果たした初の快挙でした。翌年には代表作《二菩薩釈迦十大弟子》を発表、また、1942(昭和17)年より著書の中で自らの木版画を「板画」と呼び、他の創作版画との差別化を図るようになります。
第二次大戦中は東京にとどまりますが、終戦直前の1945(昭和20)年4月に富山県福光町(現・南砺市)に疎開。同年5月の東京大空襲で自宅を焼失し、板木の多くを失いました。福光には1951(昭和26)年まで滞在。
戦後の棟方は、1955(昭和30)年に「第3回サンパウロ・ビエンナーレ」で版画部門最高賞を、1956(昭和31)年に「第28回ヴェネツィア・ビエンナーレ」で国際版画大賞を受賞するなど国際的な評価を確立し、1959(昭和34)年にはロックフェラー財団とジャパン・ソサエティの招きにより初めて渡米、各地で個展を開催し、大学で「板画」の講義を行います。また、約9ヶ月の渡米中ヨーロッパへも足を延ばし、各地の美術館を見学します。
1960(昭和35)年頃から眼病が悪化し、左眼が殆ど失明状態となりますが、その旺盛な制作活動は衰えを見せず、1961(昭和36)年には青森県庁新庁舎の落成を記念し、幅7mの巨大な《花矢の柵》を制作、その後も《大世界の柵》など大型の作品を手がけました。1970(昭和45)年には文化勲章を受章。「板画」の他、自ら「倭画」と名づけた即興的な日本画を数多く制作、大衆的な人気をも獲得していきました。
1973(昭和48)年、鎌倉市に財団法人棟方板画館を開館しましたが、翌年に健康を害して入院、1975(昭和50)年5月に東京の自宅で死去。同年11月、青森市に棟方志功記念館が開館しました。
今純三(こん じゅんぞう) [1893-1944]
今純三は、1893(明治26)年、弘前市の代々津軽藩の御典医を務めた家に生まれました。5歳上の次兄は「考現学」を創始し、民家研究の分野でも重要な足跡をのこした今和次郎です。1906(明治35)年に家族とともに上京しますが、神経衰弱が原因で医学に進むことを断念し、画家を志して1909(明治38)年、太平洋画会研究所に入ります。翌年、白馬会葵橋洋画研究所に移り、1912(明治45)年には岡田三郎助が藤島武二とともに設立した本郷洋画研究所に入所します。
1913(大正2)年の「第7回文展」に《公園の初秋》が初入選、翌年の東京大正博覧会で《花と果物》、1917(大正6)年の第5回光風会展で《静物》、1919(大正8)年の第1回帝展で《バラライカ》が入選するなど画家としての道を歩み始めますが、一方で、「自由劇場」や「芸術座」などの新劇の舞台で舞台美術製作を担当し、1921(大正10)年には資生堂意匠部に勤務します。
1923(大正12)年、関東大震災で被災したのを機に青森市に転居すると、銅版画や石版画の研究・制作に着手、版画制作に重点を置くようになります。1927(昭和2)年、青森県師範学校図画嘱託となりますが、この頃より、兄の和次郎による「考現学」調査に協力し、青森の暮らしを詳細に採集したスケッチを和次郎のもとに送るようになり、同年に東京新宿の紀伊国屋書店で開催された「しらべもの[考現学]展覧会」には、純三による「青森雪の風俗帳(其1)」も出品されました。当時、純三のアトリエには、芸術家志望の若者が足繁く訪れ、純三から多くを学んだといわれています。
1933(昭和8)年に青森県師範学校を退職して東奥日報社編集局嘱託となった純三は、県内各地の自然や風俗等を考現学的な視点をもって描写した、銅版と石版による『青森県画譜』の発行に着手、翌年、全12集(100点)をもって完結させます。1935(昭和10)年にはエッチングによる「奥入瀬渓流」連作や、県内の風景、風俗を題材にした銅版画による小品集の制作にも着手するなど、1930年代後半にかけて精力的に活動をおこない、1936(昭和11)年には川崎正人らと「青森エッチング協会」を設立、1937(昭和12)年からは、西田武雄が発行していた雑誌『エッチング』で「私のエッチング技法」の連載執筆を開始します(1940年4月まで)。
1939(昭和14)年9月、版画家としての再出発をかけて家族とともに上京しますが、戦時下、西田武雄の紹介によりインキ製造所で働くことになります。1940(昭和15)年、「日本エッチング協会」の設立に参加し、1943(昭和18)年には版画研究の集大成である『版画の新技法』を三國書房より刊行しますが、困窮した生活を支えるための過重労働により湿性肋膜炎を発症し、1944(昭和19)年9月28日に亡くなりました。制作助手としても純三を献身的に支えてきた妻のせつは純三没後、青森に帰郷し、翌年の青森空襲で亡くなりますが、純三の作品は奇跡的に戦災を免れました。戦後、1950(昭和25) 年には兄の和次郎により、東京ジープ社から『版画の新技法』が再刊されています。
ミナ・ペルホネン(minä perhonen)は女性服を主に展開している日本の服飾ブランドである。1995年、デザイナー皆川明(みながわ・あきら)によりファッションブランド「ミナ(2003年よりミナ ペルホネン)」が設立される。
ミナ ペルホネンは、ハンドドローイングを主とする手作業の図案によるテキスタイルデザインを中心に、社会への考察や自然への詩情から図案を描き、織りやプリント、刺繍などのテキスタイルをオリジナルにデザインしている。2006年「毎日ファッション大賞」大賞を受賞。近年は、青森県立美術館、東京スカイツリーRのユニフォームのデザインも手がけるほか、家具や器、店舗や宿の空間ディレクションなど、日常に寄り添うデザイン活動を行っている。
青森県立美術館の見学を終え、南へ15分ほどの場所にある世界遺産・小牧野遺跡のガイダンス施設である青森市小牧野遺跡保護センター(縄文の学び舎・小牧野館、青森市野沢字沢部)へ向かった。