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礼文町郷土資料館①縄文人として初のゲノム解析をされた船泊縄文人

2024年08月20日 09時00分38秒 | 北海道

礼文町郷土資料館。礼文町大字香深村字ワウシ。礼文町町民活動総合センター「ピスカ21」。

2022年6月17日(金)。

「北のカナリアパーク」を見学後、礼文島一周の定期観光バスの終点である香深フェリーターミナルに12:30ごろ着いた。トレッキングのスタートとなる桃岩登山口へは香深港13時25分発・33分着の路線バスを使い、帰途は徒歩で下山することにした。

2020年ごろラジオで知った日本の縄文人として初めてゲノム解析された船泊縄文人の展示に関心があった礼文町郷土資料館の見学は、路線バスに乗車するまでの時間を充当することにして、香深フェリーターミナルから徒歩1分ほどの礼文町郷土資料館へ向かった。

礼文町船泊遺跡は、島北部の船泊湾に面した船泊砂丘の西側にあり、久種湖と海岸の間に出来た高さ10m前後の砂丘上に立地し、縄文時代中期から後期にかけての土器や人骨が発見される遺跡として知られていた。

1998年に行われた町教育委員会の発掘では、貼床などを伴う生活面24基、墓壙24基、土壙19基、屋外地床炉29基、集石炉58基などが検出された。遺物は縄文時代後期中葉の船泊上層式が中心で、この時期は、南は九州から北は北海道北部まで、統一化された土器文様が見られる。

埋葬された人骨には、ビノスガイの貝殻で作られた貝玉がたくさんつけられており、他の遺跡ときわだった特徴がある。これらの人骨は、顔を東に向け四肢を曲げた屈葬と呼ばれる姿勢で埋葬された。副葬された貝玉はネックレス・ブレスレット・アンクレットとして用いられた。腰飾に縫い付けられた場合もあったようである。

大量の貝製平玉とそれを作るために使われた長さ1cm余りのメノウ製のドリルが1万点以上出土した。貝玉の原料となるビノスガイの貯蔵庫や貝玉作りの作業所もあり、明らかに交易用の貝玉製作が組織的に行われたようである。

このような貝玉作りの村である船泊遺跡の7号人骨の胸元から、長さ7.8cm、幅3.2cmの大型ヒスイ大珠が出土した。ヒスイの原産地は新潟県糸魚川地方と考えられ、礼文島まで直線距離にして1000km以上もある。船泊遺跡の貝殻装飾品のなかには南海産のイモガイ製ペンダント、タカラガイの装飾品、マクラガイのブレスレットが出ており、当時、遠隔地間において積極的な交易があったことが窺がえる。

今から約3500〜3800年前の縄文時代後期,北海道の礼文島北部の海岸沿いの集落で,ひとりの女性が亡くなった。後に船泊遺跡と呼ばれるこの集落に住んでいた人々の多くと同様,彼女は貝で作ったブレスレットやアンクレットを身に着けた状態で埋葬され,長い眠りについた。

 だがその遺骨は,1998年の船泊遺跡の大規模調査によって発掘され,再び日の目を見ることになった。研究者たちを驚かせたのは,その骨の保存状態の良さである。まるで最近埋葬されたかのように,全身がほぼ完全な形で残っていたのだ。

「船泊23号」と名付けられたこの女性は2019年,最新技術によって,骨に残ったDNAが詳しく調べられた。彼女はゲノム全体を現代人並みの精度で解析された初の縄文人となり,顔かたちや体質,婚姻関係,そしてヤポネシア(日本列島)に来る前に東アジア大陸にいたときのルーツまで,多くのことを語り始めた。

『新版 日本人になった祖先たち』篠田謙一2019。

プレスリリース  2019年(平成 31 年) 5 月 13 日 国立科学博物館

遺伝子から続々解明される縄文人の起源  ~高精度縄文人ゲノムの取得に成功~

独立行政法人国立科学博物館(館長:林 良博)の研究員を筆頭とする国内 7 研究機関 11名からなる共同研究グループが、北海道礼文島の船泊遺跡から出土した約 3,800 年前の縄文人の全ゲノムを高精度で解読しました。この結果、古代日本人DNA研究が大きく進み、日本人の起源が解明されることが期待されます。

 

日本ではこれまで現代人と同じ精度での古代人ゲノム解析は行われていませんし,アジアでも今回の縄文人の解析が最初のものとなります。

縄文人は日本列島で 16000 年前から 3000 年前まで続いた縄文時代の狩猟採集民で、われわれ現代人にも遺伝子を伝えています。この縄文人の起源と成立について,これまで東南アジア起源あるいは北東アジア起源が考えられてきましたが,その詳細については依然として明確ではありません

船泊23号女性人骨の高精度な全ゲノムから,アルコール耐性や皮膚色など複数の形質を推定しました。これらの情報を元にした船泊縄文人の復顔については昨年発表を行いました。

今回の研究では,日本の古代人で初めて HLA のタイプを明らかにしています。HLA はヒトの体の中で重要な免疫機構として働くだけでなく,近年では多くの疾患とも関連していることが明らかになりつつあります。どのような HLA のタイプがいつから日本列島に存在しているかを確かめることは,日本人の起源だけではなく、我々の持つ様々な疾患に対する理解を進めることにもつながります。

さらに,疾患関連の変異として CPT1A 遺伝子の Pro479Leu 非同義置換も検出されました。このアミノ酸の変化は高脂肪食の代謝に有利で,北極圏に住むヒト集団ではこの変異した遺伝子の頻度は70%を超えています。しかし現代日本人には,この変異はほぼ存在しません。

船泊遺跡から出土した遺物の分析では,船泊縄文人の生業活動は狩猟・漁撈が中心であったことが示されており,この変異は彼らの生活様式と関連していた可能性があります。考古遺物から推定される彼らの生活が,遺伝子からも裏打ちされたことになります。

古代ゲノムは,これまでの研究からはうかがい知ることの出来なかった,古代人の性質をも明らかにしました。

ゲノムの遺伝的多様性が低いことから,縄文人の集団サイズは小さく,それが過去5万年間に渡って継続していたことが明らかとなりました。縄文人につながる人々は,歴史上集団のサイズを大きくすることはなく,少人数での生活を続けていたようです。このことも,狩猟採集民である縄文人の生活様式と関連している現象だと考えられます。

アジアにおける船泊縄文人の系統的位置は先行研究の結果と一致し,アメリカ先住民を含む東ユーラシア集団の中で,船泊縄文人は系統的には,最も古い時代に分岐したことが示されました。ただし,パプア人や4万年前の中国の古代人である田园洞人が分岐した後に分岐したことも明らかになりました。このことは,縄文人の系統が比較した大陸の集団から長期に渡って遺伝的に孤立していたことを示しています。

しかしその一方で,ウルチ,韓国人,台湾先住民,オーストロネシア系フィリピン人は,日本列島集団と同様に,漢民族よりも遺伝的に船泊縄文人に近いことが示されました(図2)。

図2.船泊23号と世界中の現代・古代人との遺伝的親和性。縄文人と東アジア沿岸部周辺の現代人の間に遺伝的親和性があることを示しています。

東アジアの沿岸の南北に広い地域の集団が船泊縄文人との遺伝的親和性を示すという事実は,東ユーラシアにおける地域集団の形成プロセスを知るための手がかりを提供しており,大変意義深いものです。

今回の高精度の縄文人ゲノムは,今後の古代日本人 DNA 研究の基本となる参照配列となることが期待されます。

私たち現代日本人は,縄文人と弥生時代以降の渡来人の混血によって形成されたと考えられていますが,その過程の中で縄文人からどのような DNA を受け取り,また受け取らなかったのか,ということを明らかにすることは,私たち日本人を理解する際に重要な情報を提供します。今後のゲノム解析は,従来の研究方法では知ることの出来なかった私たちの特性を明らかにするはずで,その中で船泊縄文人のゲノムデータは大きな価値を持つと考えられます。

 

全ゲノム解析法を用いた縄文人と渡来系弥生人の関係の解明 2015年             

篠田 謙一  独立行政法人国立科学博物館,

縄文人の普遍的に存在し、日本の基層集団を特徴付けるハプログループであるM7aとN9bには現代人にはない系統が含まれることが明らかとなった。また、それぞれが地域的な分化を遂げていることも判明した。この結果は縄文人が列島の内部で広範に遺伝的な交流を行っていたわけではなく、地域的に異なる集団として存在していたことを示唆しており、従来の「均一な縄文人」という概念を覆すものである。

更に、これまでミトコンドリアDNAのハプログループ分析に成功した個体でHiSeq を用いた全ゲノム解析を行った。解析の対象としたのは、北海道、東北、関東の遺跡から出土した縄文前期~後期の人骨のDNAで、全ゲノムデータからSNPデータを抽出し、現代人との比較を行った。その結果、北海道のアイヌ集団に有意に近いのは、北海道礼文島の縄文人であることが判明した。これは縄文時代から続く北海道集団の遺伝的な連続性を示す結果である。また、関東、東北、北海道の縄文人は互いに遺伝的に近似するが、いずれも現代の日本列島及び中国大陸との集団との違いは大きいことも再確認された。

縄文人は、東アジアの現代人集団と比較すると、極めて特異な遺伝的構成を持つ集団であり、その起源について現代人のDNAデータのみから推察することは困難である。我々の分析では縄文人と共通のSNPは、東南アジア~東アジアの集団に広く薄く共有されていることも示されており、彼らの起源地は特定の地域に収束するのではなく、アジアの広い地域から長い年月をかけて到達した人びとが、列島の内部で混合しながら形成されていった可能性があることが明らかとなった。

 

日本の北海道における船泊遺跡からの後期縄文時代の男女ゲノム配列 J-GLOBAL 2019年Anthropological Science 127  号(翻訳著者抄録)

日本北海道の船泊縄文人は3500~3800年前に狩猟生活していた。本研究では,船泊縄文女性(F23)男性(F5)からそれぞれ高深度および低深度で核ゲノム配列を決定した。F23の核DNAの遺伝子型決定し,ヒト白血球抗原(HLA)クラスI遺伝子型と表現型形質を決定した。さらに,CPT1A遺伝子の病原性突然変異がF23とF5の両方で同定された。突然変異は高脂肪食の消費に対し代謝的利点があり,その対立遺伝子頻度は北極集団において70%以上であるが,他の場所では存在しない。この変異体は,陸上および海洋動物を狩猟し漁業をしていた,船泊縄文人のライフスタイルに関連している可能性がある。F23において高い近交度(HBD)を認めたが,10cMより長いHBDは非常に限られており,北部縄文集団の集団サイズは小さいことが示唆された。

著者らの分析は,縄文人の人口サイズが,約50000年前に減少し始めたことを示唆した。F23,現代/古代ユーラシア人,およびネイティブアメリカンの系統発生関係は,東ユーラシアにおけるF23の深い拡散を示し,おそらく東ユーラシアからのネイティブアメリカンの祖先の分割の前に,北縄文人が長期間にわたって大陸東ユーラシアから遺伝的に分離されたことを示した。興味深いことに,著者らは,現代の日本人と同様に,ウルチ,韓国,原台湾,およびフィリピンの個体群が,中国の中国人よりもF23に遺伝的に近いことを見出した。さらに,F5のY染色体はハプログループD1b2bに属し,現代の日本人集団において稀である。これらの知見は,東ユーラシアにおける古代ヒト集団構造の歴史と再構築への洞察を提供し,F23ゲノムデータは将来の研究のための縄文参照ゲノムと考えられる。(翻訳著者抄録)

 

北海道礼文島の船泊遺跡(縄文時代後期前葉から中葉(約3,800~3,500年前))から出土した人骨・船泊5号のY染色体ハプログループがD1a2a2a(D-CTS220)であることが判明した。

日本人は『Y染色体ハプログループD1a2aの縄文系』と『ハプログループO1b2の弥生系』を起源とする東京大学名誉教授植原和郎が唱えた「二重構造モデル」が主流であったが、最新のゲノム解析で『ハプログループO3a2cの古墳系』からなる「三重構造モデル」であることが証明された。この『Y染色体ハプログループD1a2aの縄文系』は日本人(大和民族)及び沖縄人(琉球民族)とアイヌ人や本土日本列島奄美群島及び琉球列島と千島列島の3集団に多く見られるタイプである。国外では韓国、ミクロネシア、ティモール島などで低頻度にみられる

このハプログループD1a2aはアイヌ人の75%に見られることから、D系統はかつての縄文人(旧石器時代のシベリア)のものであると考えられている。

但し縄文人のハプログループがD1a2aだけだった訳ではなくハプログループC1a1も縄文人由来と考えられている。ハプログループC1a1は拡散年代と縄文文化開始の時期が一致しており、今後の研究いかんによっては初期の縄文人の主要なDNAとなる可能性がある。C1a1は日本人固有であり、現在の日本ではおよそ5%の頻度で発見されている。

礼文島 桃岩 猫岩 北のカナリアパーク



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