いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

福島県三春町 続日本100名城・三春城跡

2024年07月01日 17時08分15秒 | 福島県

続日本100名城・三春城跡。福島県三春町大町。

2024年5月28日(火)。

郡山市日和田町の歌枕・安積山を見学後、三春町の三春町歴史民俗資料館三春城跡へ向かった。資料館は三春町役場の裏山にあり、車道の状況が不明なので町役場の駐車場に駐車して登っていったが、車道と駐車場があることが分かった。三春町といえば、「三春の滝桜」が有名で、1980年代後半に開花時期を狙って鉄道とバスを利用して見学した。資料館では、三春人形、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が初めて仕えた松下之綱の孫の三春藩主松下長綱、登山家田部井淳子、河野広中などの展示があるが、写真撮影は禁止だった。雨の中、方角が分からなくなってしまったので、三春城跡への行き方とリーフレットを貰って三春城跡へ向かった。三春城跡は町役場から反対側の山にあり、駐車場には2分ほどで着いた。

貞享三年三春城修理絵図 1686年(三春町歴史民俗資料館蔵)

嘉永六年三春城下絵図 1853年 (三春町歴史民俗資料館蔵)

三春城は、三春町の中心部、標高407mの丘陵地にあり、戦国時代は田村氏、三春藩の藩庁となった江戸時代は松下氏、加藤氏、秋田氏の居城であった。現在は公園として整備され、城跡近くには、町役場など公共機関が集まっている。

三春城は、永正元年(1504)に戦国大名の田村義顕が築城して、守山城(現在の郡山市田村町)から本拠を移したとされるが、14世紀の遺物・遺構が発見されることから南北朝時代には城館が機能していたと推定される。戦国時代の田村地方を治めた田村氏は、それ以前に守山を拠点として田村荘を治めた「田村庄司」と区別するために、「三春田村氏」とも呼ばれている。この二つの系統の田村氏の関係は、よくわかっていない。

義顕は三春に移ると早い段階で隠居したため、その治世について詳しい事蹟は伝わっていないが、田村地方全体を統治する基礎を築いた重要な人物である。

義顕の隠居後は、義顕とその正室である岩城常隆の娘との嫡子である隆顕が家督した。隆顕は、芦名氏や伊達氏といった強大な大名との間で、巧妙な戦略により、田村地方の支配を確実なものにするとともに、安積・岩瀬郡など各地へ積極的に攻め込んだ。

隆顕が隠居すると、正室・伊達植宗の娘との嫡男・清顕が家督した。清顕は、南から新たに現れた佐竹氏を含めて乱立する戦国大名たちの間で、勇猛果敢に戦場を馳せることで、その版図を拡げた。清顕は、正室に相馬顕胤の娘を迎えたが、男子に恵まれなかったため、一人娘の愛姫を伊達輝宗の嫡子・政宗に嫁がせた。そして、愛姫と政宗の間に男子が生まれれば、それに田村家を継承させるつもりであった。しかし、武力により領地拡大を図る田村氏は、佐竹を中心に安定した社会を築きつつある周囲の大名から疎まれ、孤立した状態の中で天正14年(1586年)清顕が急死した。

天正16年(1588)8月、伊達政宗が三春に入城した。これは、この年の閏5月に清顕夫人の甥である相馬義胤の三春城入城を拒絶し、その後、佐竹・芦名連合軍との郡山合戦に伊達家と共に勝利したことで、田村家中が伊達家に大きく傾いた結果である。

政宗の三春入城を前に、その片腕として活躍した片倉小十郎が三春に入った。そして、8月3日、相馬家出身の清顕夫人を船引城へ退出させ、替わって清顕の甥の孫七郎が三春城に入った。翌4日の晩には、田村梅雪斎(田村隆顕の弟)など相馬派の家臣たちが、城下の屋敷を引き払って、梅雪斎の居城である小野城へ撤退した。

5日、政宗は宮森城(二本松市岩代町)から馬で三春に入った。途中まで小十郎が迎えに行き、田村月斎(田村義顕の弟で伊達派の長老)親子や橋本刑部ら田村家重臣たちが、城下の入り口で出迎えた。

そして、政宗が三春城に入ると、田村家の主要な家臣一同に謁見し、その後、東館に出かけた。この東館は、現在の田村大元神社裏の山と考えられ、そこには、小宰相と呼ばれた田村隆顕夫人で、伊達植宗の娘(政宗の大叔母)が暮らしていた。政宗と小宰相は、この時が初対面であったが、田村家中で唯一の近親者で気が合ったのか、政宗は42日間の滞在中に15回も東館を訪れている。

政宗は三春城滞在中に、田村孫七郎に自分の名の一字を与えて宗顕とし、宗顕を三春城主とする傀儡政権を打ち立てた。さらに、相馬派の家臣を一掃し、先の相馬勢との戦いで相馬方が籠った石沢城(田村市船引町)を破却し、三春城の要害の点検なども行っている。

こうした政宗による一連の田村仕置きの結果、田村地方は実質的に伊達領となり、この前後の外交交渉により、県中地域をほぼ勢力下とし、南奥羽制覇の基礎を固めた。

天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置きにより、田村宗顕は改易された。伊達政宗は、豊臣秀吉の奥羽仕置きで、戦争により獲得した会津をはじめとする占領地を失うが、改易された田村家の旧領を一旦は確保することに成功する。

 

奥羽仕置きの翌年、宮城県から岩手県を中心に起こった葛西氏や大崎氏の旧臣や、九戸氏らの反乱を鎮圧した豊臣政権は、再度仕置きを行って東北地方の大名領地を再編成した。その結果、旧田村領は会津に入った蒲生氏郷の領地となり、その領内でも最大級の領域である田村地方を治める三春城は、本城である若松城を支える重要な支城となった。

その後、氏郷が急死したため、嫡男の秀行が家督するが、宇津宮に移され、替わって越後から上杉景勝が会津に入った。この上杉氏の時代は、守山を支城としたため、三春は使われなかった。関ヶ原の戦いを経て徳川氏の時代になると、上杉氏は領地を削られ米沢に移り、徳川家康の婿にあたる蒲生秀行が会津に戻された。田村地方の城代となった蒲生郷成は、最初守山城に入るが、数年後三春へ戻った。終には1627年に蒲生家は会津を離れた

近年の発掘調査などで、三春城本丸周囲の大規模な石垣は、蒲生氏の時代に築かれたことがわかり、この時期の三春は廃れるどころか、活発に城下町の建設が進められていたことがわかってきた。蒲生氏は、伊勢松坂や会津若松をはじめ、たくさんの城下町を建設しており、町づくりを得意とする大名であり、三春も蒲生氏によって、戦国時代の城下町から江戸時代の城下町へとつくり直されたと考えられる。

寛永4年(1627)、蒲生氏郷の孫・忠郷が嫡子のいないまま死去したため、伊予松山に減封され、交代で加藤嘉明が会津藩主になった。

加藤嘉明は、豊臣秀吉に取り立てられた武将であるが、徳川家からの信頼も厚く、奥羽の要とされる会津を任せられた。この時、中通りの旧蒲生領が分割され、白河10万石には丹羽長秀、二本松5万石には加藤嘉明の娘婿の松下重綱、三春3万石には嘉明三男の加藤明利が入った。二本松と三春は、会津に従う与力大名の位置付けであるが、江戸にも屋敷を構える独立した大名となった。

しかし、三春藩主としての明利の治世は、1年余りで終わった。二本松藩主となった松下重綱が、入封間もない10月に死去し、嫡子の長綱が二本松城を預かるには幼稚とされたためで、松下長綱は翌年正月に加藤明利と交代で三春藩主になり、寛永21年(1644)に改易されるまで、三春を治めた。

松下重綱の父之綱は、静岡県の頭陀寺城主で、幼い豊臣秀吉が最初に仕えた武将として有名である。今川氏から徳川氏、後には大成した秀吉に仕え、久野城(静岡県袋井市)を与えられた。之綱の没後、嫡男の重綱が家督して、久野から常陸小張(茨城県つくばみらい市)、下野烏山(栃木県烏山市)の城主となり、加藤嘉明の娘を正室に迎えた縁で、二本松へと移った。

この時代の三春城は、山上の本丸に藩主が暮らし、中腹各所の平場に重臣たちの屋敷が立つ、山城の状態であった。しかし、大名の居城となったため、本丸には瓦葺の櫓をはじめ、大型の建物が建築され、城下には多くの家臣が暮らすための武家屋敷や、その生活を支えるための町人が暮らし、ほぼ現在のような町ができあがった。

松下氏の改易で城主がいなかった三春に、正保2年(1645)秋田俊季が5万5千石で移され、明治維新まで11代続いた

秋田氏は、鎌倉時代に津軽十三湊(青森県五所川原市)を拠点に、アイヌや中国と交易し、日の本将軍とも呼ばれた安東(安藤)氏の後裔である。室町時代になると本家は南部氏に追われて北海道へ逃れ、その後、一族の下国家が北海道から出羽檜山(能代市)に拠点を移した。そして、愛季が安東家を統一し、織田信長とも誼を通じて、侍従に任じられた。秋田と苗字を変えた愛季の子実季は、豊臣秀吉の奥羽仕置きで出羽5万石と太閤蔵入地となった旧領の管理を一任された。関ヶ原の合戦では、徳川方として行動したが、家康には認められず、先祖代々暮らした北の大地から離され、常陸宍戸(茨城県笠間市)へ移された。嫡男の秋田俊季は、正保2年(1645)三春に5万5千石で移された。

幕末の戊辰戦争の際、官軍が隣藩の棚倉城を落とすと、断金隊隊長の美正貫一郎の尽力や河野広中らの働きによって秘かに板垣退助らと会談して三春藩は奥羽越列藩同盟を脱退、官軍に無血降伏した。そのため、三春城は周辺諸藩と違い、逆賊のそしりを受けずに済み落城を免れた。

三春城は明治4年(1871年)の廃藩置県によって廃城となり、その後、兵部省の管轄となる。それに伴い、建物や石垣等が取り壊され、民間に払い下げられた。その際、ほとんどの建造物は失われたが、藩校明徳堂の表門が三春小学校の校門として移築され、現存する。

大正11年(1922年)に山頂部分(本丸)は城山公園として整備され、道路が開削されるなどして地形は大きく変わった。二の丸付近には駐車場が整備されて愛姫生誕の地の碑が立つ。また、山麓の秋田氏時代の居舘跡や武家屋敷があった地域は、役場や合同庁舎、公民館、小学校などとなり、この一帯が現在も三春町の中枢地域の役割を担っている。

田村時代三春城絵図 16世紀後葉 (三春町歴史民俗資料館蔵)

戦国時代の三春城は、山頂部分の本丸に城主居舘を置き、それを中心に郭を配置した典型的な山城であったと思われる。本来の城である本丸を中心とした「主城」の東南には「東館」と呼ばれる曲輪が、谷を挟んだ北西には「月斎館」と通称される曲輪があり、2つの曲輪は「主城」から一定の自立性を保っていた。しかし、後期蒲生氏時代に「主城」と「東館」部分に石垣が設けられた頃には「月斎館」は放棄されており、その後「東館」も放棄されている。

江戸時代初期の松下長綱による改修により、かつての「主城」の一部である本丸西の山麓部分に二の丸、東側の山麓に三の丸が設けられ、それらの周囲の丘陵の中腹地には重臣の屋敷が配置された。

秋田氏時代になると、藩主の居舘を山頂の本丸から山麓に移し(現在の三春小学校一帯)、名実ともに近世的な平山城へ生まれ変わった。天守は無かったが本丸下段に三層三階の櫓があり威容を誇っていた。

本丸推定復元図。上が本丸上段部の御座間・台所・大広間。

愛姫生誕地の碑。

愛姫は田村清顕の娘で1579年(天正7年)伊達政宗に嫁いだ。二之門横の駐車場にある。

三之門(中之門)跡。

二之門からつづら折りの坂道を登り、本丸への最後の曲折部に設けられた門。二之門と同じように、門の両脇に高さ2.3mほどの石垣に土塀を載せた小型の門である。門内に番所はないが、戦時に兵を配備する武者溜まりとなっている。

本丸表門跡。

本丸南側の出入り口に建てられた二階建ての門で、本丸を囲む土塀に続いて、両脇に高さ1.8mの石垣が築かれていた。間口6間に奥行3間、高さが10.5mと大きな建物は、岩城街道から城下町に入った新町を見下ろす壮麗な建物であった。

大広間跡。

大広間は本丸御殿の中核となる建物で、家臣一同を集めて儀式等で藩主が謁見するため、全体で6間に16間の巨大な建物であった。御上之間、中之間、広間の3室からなり、特に広間は6間に5間の柱のない空間となり、この大空間を覆う屋根の高さは、三階櫓とほぼ同じ12.6mにもなる。

御座之間跡。

御座之間は、御殿での儀式に際して藩主の控え室となる建物である。表から奥へ4室が雁行する平面形で、全体で4間半に13間と、奥行のある建物である。東側に付く縁側は、大広間まで続き、領内の山々が遠望できた。

御座之間跡から台所跡。

本丸御殿での儀式で供する料理を整える台所で、6間に8間半、高さ10.9mの建物。西側の土間には竈が2基据えられ、板の間にも囲炉裏があり、一度の大勢の家臣たちの料理を準備した。

本丸上段から本丸下段。

本丸下段の三階櫓跡方向。

三階櫓跡から見下ろす城下町。

本丸西端の城下を見渡す位置に建てられた三階櫓は、三春城のシンボルであった。1階が4間に7間と長方形の建物で、2階と3階が3間の母屋を利用して望楼を載せた古いタイプの櫓だが、棟の向きが各階で交差するのが特徴的であった。高さは12.7mあり、中には藩主が代々の将軍から戴いた朱印状が納められていた。

 

このあと、復元された前方後方墳・大安場1号墳のある郡山市の大安場史跡公園へ向かった。

福島県二本松市 安達ヶ原の鬼婆伝説の地(黒塚・岩屋)郡山市 安積山



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。