昨夜から「指切り」を聴き続けている。
100回とは言わないが
それに匹敵するくらいの回数は数えていよう。
仮に100回聴いていたとして
でもそれは表層的経済学的に見れば
CD1枚お買い上げの単なるひとりの消費者。に過ぎない。
それならば
100枚買って、それぞれ1回ずつ聴いた方が
余程コロムビアレコード等に貢献しようというものだ。
そうか。その手があった。
折りよく11月は我武者羅に働いたおかげで
「指切り」100枚買うくらいの臨時収入はあった。
それが家庭会計に繰り入れられる前に
自分の財布にくすねれば萬事終了完全犯罪な訳だ。
やりませんて…。
僕が「指切り」に斯くも肩入れするのは、
それが一青窈さんの音楽、であるからでは決してない。
現に、「影踏み」や「かざぐるま」でここまでは言わなかった。
曲が万一自分にとって全く満足いかないものであれば
自分勝手にも扱き下ろしちゃうかもしれない程の心の準備はできている。でも。
「指切り」が、ひょっとすると自分にとって
一青窈史上最高の輝きを持つ名曲である予感が
この熱の入れように繋がっていると言わざるを得ない。
熱し易い熱ほど冷め易いという人類普遍の法則は措いておくとして。
過去に好きになった数多くの歌い手たち。
僕が彼ら(彼女ら)を好きになった時点で
それらは時として活動のピークを迎えていたり
まさにこれからブレイクというときだったり。
どちらにしても。
僕が好きになった時点で僕が大好きになった曲以上に
心に突き刺さる名曲をその後に送り出してくれた歌い手は
ひょっとするといなかった。のでは。
むしろ、後々発表される新曲たちは
時として「こんなはずじゃなかった」感を
聴いている僕に感じさせる。
それは全くもって聴き手である僕の勝手な思い込み、
この歌い手はこうあるべきであるという先入観の仕業なのであるけれど。
そして、一青窈さん。
この歌い手を本当に心から好きになったのは
率直に言ってシングル発表時期で測るなら「ハナミズキ」以降である。
従前の僕の法則に従うなら、
「ハナミズキ」以降に「ハナミズキ」を超える曲は
少なくとも僕にとっては有り得ない可能性が極めて高いことになる。
ところが。
いま「指切り」を聴いていて
そうした法則に思えたものが実は何の説得力も持たないものである事に気づく。
「指切り」は全てを超えてしまった、のかも知れない。
容易く超えてしまった、のかも知れない。
もちろんこうした刹那な感情も
飽く迄もイマ現在の抱きゴコロであって、
次の瞬間には途端に変わっていることも当然起こり得る事。
それはつまり
僕と、歌い手としての記号でもある「一青窈」との関係は
そうした綱渡り的な瞬間瞬間の感情に支配されているということでもある。
だからこそ、この一青期(ヒトトキ)が心地好いのかもしれない。
2分37秒地点。
この瞬間のPVの表情に
いまだ囚われている。
100回とは言わないが
それに匹敵するくらいの回数は数えていよう。
仮に100回聴いていたとして
でもそれは表層的経済学的に見れば
CD1枚お買い上げの単なるひとりの消費者。に過ぎない。
それならば
100枚買って、それぞれ1回ずつ聴いた方が
余程コロムビアレコード等に貢献しようというものだ。
そうか。その手があった。
折りよく11月は我武者羅に働いたおかげで
「指切り」100枚買うくらいの臨時収入はあった。
それが家庭会計に繰り入れられる前に
自分の財布にくすねれば萬事終了完全犯罪な訳だ。
やりませんて…。
僕が「指切り」に斯くも肩入れするのは、
それが一青窈さんの音楽、であるからでは決してない。
現に、「影踏み」や「かざぐるま」でここまでは言わなかった。
曲が万一自分にとって全く満足いかないものであれば
自分勝手にも扱き下ろしちゃうかもしれない程の心の準備はできている。でも。
「指切り」が、ひょっとすると自分にとって
一青窈史上最高の輝きを持つ名曲である予感が
この熱の入れように繋がっていると言わざるを得ない。
熱し易い熱ほど冷め易いという人類普遍の法則は措いておくとして。
過去に好きになった数多くの歌い手たち。
僕が彼ら(彼女ら)を好きになった時点で
それらは時として活動のピークを迎えていたり
まさにこれからブレイクというときだったり。
どちらにしても。
僕が好きになった時点で僕が大好きになった曲以上に
心に突き刺さる名曲をその後に送り出してくれた歌い手は
ひょっとするといなかった。のでは。
むしろ、後々発表される新曲たちは
時として「こんなはずじゃなかった」感を
聴いている僕に感じさせる。
それは全くもって聴き手である僕の勝手な思い込み、
この歌い手はこうあるべきであるという先入観の仕業なのであるけれど。
そして、一青窈さん。
この歌い手を本当に心から好きになったのは
率直に言ってシングル発表時期で測るなら「ハナミズキ」以降である。
従前の僕の法則に従うなら、
「ハナミズキ」以降に「ハナミズキ」を超える曲は
少なくとも僕にとっては有り得ない可能性が極めて高いことになる。
ところが。
いま「指切り」を聴いていて
そうした法則に思えたものが実は何の説得力も持たないものである事に気づく。
「指切り」は全てを超えてしまった、のかも知れない。
容易く超えてしまった、のかも知れない。
もちろんこうした刹那な感情も
飽く迄もイマ現在の抱きゴコロであって、
次の瞬間には途端に変わっていることも当然起こり得る事。
それはつまり
僕と、歌い手としての記号でもある「一青窈」との関係は
そうした綱渡り的な瞬間瞬間の感情に支配されているということでもある。
だからこそ、この一青期(ヒトトキ)が心地好いのかもしれない。
2分37秒地点。
この瞬間のPVの表情に
いまだ囚われている。
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