先日10日日曜、午後の競馬の始まった1時ごろのことだった。場所は大阪ミナミ、心斎橋。
加害者の名前を先ず第一に、記録して置きたい。
磯飛京三 容疑者 36歳
被害者となられたお二人から、この週末も浮かび上がるものを凝視するのが、常套手段でもあり、それに勤しむことになるからこそ、この出馬表よりもずっと以前に記して置きたい。新たな法務大臣も見解を述べたが、わたくしも一市民として、また個人として、また西洋人と付き合った経験から、戦後民主主義教育を受けた日本人の中では信仰をも持つ人間である。
死刑 地獄
この2つの言葉が浮かぶ。このような身勝手、倣岸な精神の内に生涯を送った者の魂は、如何に神が諸手の抱擁に迎え入れようとしても、そのものの魂自体の性行、素のありさまがそりが合わず、自分の相応しい場所に、どのような障壁、妨害が待ち構えていても、自力で辿り着くこうとする。そのように出来ているものらしく、またそのような必死の尽力の1つが今回のような行動だと言える。
丹波哲郎さんもかつて仰っておられた。
「ゴキブリには冷蔵庫の下こそが天国なんだから」
地獄には堕とされるのではなく、自分から赴くものらしい。そこがその魂に取り、自分らしく、居心地が好いと感じられるからである。京三どころか、京一、京二から、京千、京億万まで。それどころか歴史上、生まれ、亡くなり、あの世入りされた方々の内、似通った、いや寸分違わぬ等質の傾向の無数の者が寄り集い、恰も自主的一集団、一集落を形成した、ムラのような場所が「自ずと」待ち受け、魂の永遠の住処として、特有の秩序を保ち、神の代わりに、この世に居る頃から予約済みとなるものらしい。ことごとに入り乱れ、無数の多様が同居するこの世と異なり、向こう(霊界)は己と等質の者の寄り集いである。いたわりあいのサロン、嘆き合いの村、騙し合いばかりの集団、憎しみ合いと闘争に明け暮れる巨大な一帝国 ・・・ 人の性向以上に無数の、「自分に相応しい、ぴたりとフィットする場所」が誰にもあるらしい。
問題は被害に遭われた方々である。不慮の事件、災厄に落命された方々。報道で見る、花を手向けられ、冥福を祈られる通りすがりの方々と心は同じ、簡単に大阪に赴くことは出来ないが、図らずも向こう=霊界入りをされた方々の突然の仰天、悲嘆、痛恨を癒し、鎮め、やすらげる仕事は、わたくしどものこころでいささかを果すことが出来る。が、その方々にはその方々なりに、相応しい場所が待ち受けているのである。
わたくしは、人間は死ねばそれで無に帰する、というような粗雑な考えは持っていない。宇宙で知的隣人にすら未だ遭遇し得ない「現代地球人」のような未開の文明の先端者に、この世、宇宙界、霊界、それもわずか断片に過ぎないような、巨大構造の全体相が掴めるわけが無い。我々は、地上を自ずからの秩序で這う、一団の蟻の群れ程度に過ぎず、スペースシャトルや素粒子の知識すら持たない。知っている範囲のことを知り分け、「知識」と称しているに過ぎない。
現代科学が語る宇宙とて、果てが無い、程度のことを説明するが、恐らくもっと巨大で、途轍もないほど無辺だぜ、きっと。昔は原子より小さいものは無い、と教えられていたが、今はもっと小さな粒子まで存在が説かれている。光速を超えるものがあるわけが無い、との主張もそれを超えるものがないと説明できない現象が見つかり、仮説的に信じるしかなくなった。いつの時代も、飽くまで「今のところ」、ここまでしか解かっていない、だけであり、「存在が実証できないものは信じてはならない」ことの代表が、宗教や神や霊となっている模様だが、西洋知識人の間では、「最先端科学」と「信仰」とは矛盾しない。日本では両極端に置かれているが、それは根本的に、「終戦・戦後」を境に、長らくの国家的なこころの支柱と訣別を余儀なくされたからである。我々は忘れさせられた。ホーキング博士は、宇宙を説明するのに神は不要などと述べたが、わたくしは至らぬ主張だと考える。寧ろ、向こうの先端宇宙物理学者らの中には、知れば知るほど、解かれば解かるほど、この世、宇宙が知的で実に秩序あるつくりになっており、偶然やたまたま良く出来ていて生存に適した辺境に私どもが置かれていると考えるには、余りに出来過ぎの状況や配慮に満ち満ちている、と感じ、「これはどう見てもおかしい。誰かが仕組んでいる」と感じ、これが信仰、絶対者の実在に通じるらしい。日本人は科学的な人ほど神を信じない傾向が強いが、向こうでは矛盾しないよ。「神」を絵空事で、棚の上、その時節限りのものと割り切り、コアに在るものとして忘れてしまうことが「戦後」の生き延びる道だったので、今の日本の行き着いた脆弱、薄さ、儚さがある。とこれがわたくしの根本の時代観なのだが。
この加害者、永遠の地獄だよ。神がつけ入る隙が無いのだから。
競馬を仕組んでいる人々は、左程完璧で、究極的ではない。偶然にも偏りにも傾く。
同時代的で、隣人的で、情緒的でもある。
今週も待っているので、わたくしは、当然、この出来事も踏まえ、取り組む。
御登録は
sir_delacroix@yahoo.co.jp まで
結局は、自分で自分のこころの向き先、陥りがちな傾向、支配的気質や気分、管理するしかない。親も社会も友人も上司も頼り切れない。だからこそ、「神」のようなものを模索し、そのあてを探る思いを持ちつつ、生きるべきである。信仰の無い人間は弱いなあ。
芥川龍之介は「人生は地獄よりも地獄的である。」と言ったが、地獄的であるだけで地獄ではない。この世では、刃物を振り回しても一時で、「社会秩序」が拘束、捕縛、管理、統御、断罪してくれる。向こうでは、自分似、いや自分だらけの真っ只中になだれ込み、果てなく過ごすのだから。
この世も、あの世も、自分次第
そう一人言ちつつ、今週走る厩舎が浮かぶ。
加害者の名前を先ず第一に、記録して置きたい。
磯飛京三 容疑者 36歳
被害者となられたお二人から、この週末も浮かび上がるものを凝視するのが、常套手段でもあり、それに勤しむことになるからこそ、この出馬表よりもずっと以前に記して置きたい。新たな法務大臣も見解を述べたが、わたくしも一市民として、また個人として、また西洋人と付き合った経験から、戦後民主主義教育を受けた日本人の中では信仰をも持つ人間である。
死刑 地獄
この2つの言葉が浮かぶ。このような身勝手、倣岸な精神の内に生涯を送った者の魂は、如何に神が諸手の抱擁に迎え入れようとしても、そのものの魂自体の性行、素のありさまがそりが合わず、自分の相応しい場所に、どのような障壁、妨害が待ち構えていても、自力で辿り着くこうとする。そのように出来ているものらしく、またそのような必死の尽力の1つが今回のような行動だと言える。
丹波哲郎さんもかつて仰っておられた。
「ゴキブリには冷蔵庫の下こそが天国なんだから」
地獄には堕とされるのではなく、自分から赴くものらしい。そこがその魂に取り、自分らしく、居心地が好いと感じられるからである。京三どころか、京一、京二から、京千、京億万まで。それどころか歴史上、生まれ、亡くなり、あの世入りされた方々の内、似通った、いや寸分違わぬ等質の傾向の無数の者が寄り集い、恰も自主的一集団、一集落を形成した、ムラのような場所が「自ずと」待ち受け、魂の永遠の住処として、特有の秩序を保ち、神の代わりに、この世に居る頃から予約済みとなるものらしい。ことごとに入り乱れ、無数の多様が同居するこの世と異なり、向こう(霊界)は己と等質の者の寄り集いである。いたわりあいのサロン、嘆き合いの村、騙し合いばかりの集団、憎しみ合いと闘争に明け暮れる巨大な一帝国 ・・・ 人の性向以上に無数の、「自分に相応しい、ぴたりとフィットする場所」が誰にもあるらしい。
問題は被害に遭われた方々である。不慮の事件、災厄に落命された方々。報道で見る、花を手向けられ、冥福を祈られる通りすがりの方々と心は同じ、簡単に大阪に赴くことは出来ないが、図らずも向こう=霊界入りをされた方々の突然の仰天、悲嘆、痛恨を癒し、鎮め、やすらげる仕事は、わたくしどものこころでいささかを果すことが出来る。が、その方々にはその方々なりに、相応しい場所が待ち受けているのである。
わたくしは、人間は死ねばそれで無に帰する、というような粗雑な考えは持っていない。宇宙で知的隣人にすら未だ遭遇し得ない「現代地球人」のような未開の文明の先端者に、この世、宇宙界、霊界、それもわずか断片に過ぎないような、巨大構造の全体相が掴めるわけが無い。我々は、地上を自ずからの秩序で這う、一団の蟻の群れ程度に過ぎず、スペースシャトルや素粒子の知識すら持たない。知っている範囲のことを知り分け、「知識」と称しているに過ぎない。
現代科学が語る宇宙とて、果てが無い、程度のことを説明するが、恐らくもっと巨大で、途轍もないほど無辺だぜ、きっと。昔は原子より小さいものは無い、と教えられていたが、今はもっと小さな粒子まで存在が説かれている。光速を超えるものがあるわけが無い、との主張もそれを超えるものがないと説明できない現象が見つかり、仮説的に信じるしかなくなった。いつの時代も、飽くまで「今のところ」、ここまでしか解かっていない、だけであり、「存在が実証できないものは信じてはならない」ことの代表が、宗教や神や霊となっている模様だが、西洋知識人の間では、「最先端科学」と「信仰」とは矛盾しない。日本では両極端に置かれているが、それは根本的に、「終戦・戦後」を境に、長らくの国家的なこころの支柱と訣別を余儀なくされたからである。我々は忘れさせられた。ホーキング博士は、宇宙を説明するのに神は不要などと述べたが、わたくしは至らぬ主張だと考える。寧ろ、向こうの先端宇宙物理学者らの中には、知れば知るほど、解かれば解かるほど、この世、宇宙が知的で実に秩序あるつくりになっており、偶然やたまたま良く出来ていて生存に適した辺境に私どもが置かれていると考えるには、余りに出来過ぎの状況や配慮に満ち満ちている、と感じ、「これはどう見てもおかしい。誰かが仕組んでいる」と感じ、これが信仰、絶対者の実在に通じるらしい。日本人は科学的な人ほど神を信じない傾向が強いが、向こうでは矛盾しないよ。「神」を絵空事で、棚の上、その時節限りのものと割り切り、コアに在るものとして忘れてしまうことが「戦後」の生き延びる道だったので、今の日本の行き着いた脆弱、薄さ、儚さがある。とこれがわたくしの根本の時代観なのだが。
この加害者、永遠の地獄だよ。神がつけ入る隙が無いのだから。
競馬を仕組んでいる人々は、左程完璧で、究極的ではない。偶然にも偏りにも傾く。
同時代的で、隣人的で、情緒的でもある。
今週も待っているので、わたくしは、当然、この出来事も踏まえ、取り組む。
御登録は
sir_delacroix@yahoo.co.jp まで
結局は、自分で自分のこころの向き先、陥りがちな傾向、支配的気質や気分、管理するしかない。親も社会も友人も上司も頼り切れない。だからこそ、「神」のようなものを模索し、そのあてを探る思いを持ちつつ、生きるべきである。信仰の無い人間は弱いなあ。
芥川龍之介は「人生は地獄よりも地獄的である。」と言ったが、地獄的であるだけで地獄ではない。この世では、刃物を振り回しても一時で、「社会秩序」が拘束、捕縛、管理、統御、断罪してくれる。向こうでは、自分似、いや自分だらけの真っ只中になだれ込み、果てなく過ごすのだから。
この世も、あの世も、自分次第
そう一人言ちつつ、今週走る厩舎が浮かぶ。